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	<title>馬鹿ラッチ2.0 &#187; 小説</title>
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	<description>日々の戯れ言、綴ります。</description>
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		<item>
		<title>小説の存在意義。</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jul 2011 05:32:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ボーノ</dc:creator>
				<category><![CDATA[小説、映画]]></category>
		<category><![CDATA[日々の考え事]]></category>
		<category><![CDATA[日々の日記]]></category>
		<category><![CDATA[Tumblr]]></category>
		<category><![CDATA[小説]]></category>

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		<description><![CDATA[Tumblrを眺めてたら、こんな記事があった。 &#8220;昔、筒井康隆の作品に影響をうけて、高校生がおじいちゃんを殺したという事件がありました。本人が「筒井作品に影響をうけて」と、はっきり言っちゃったんですよ。 あの [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
Tumblrを眺めてたら、こんな記事があった。<br />
<br />
<em>&#8220;昔、筒井康隆の作品に影響をうけて、高校生がおじいちゃんを殺したという事件がありました。本人が「筒井作品に影響をうけて」と、はっきり言っちゃったんですよ。<br />
あの時の筒井康隆は偉かったよね。<br />
「文学とはそういうものだ」ってはっきりと言い切ったんです。<br />
文学というのは人の心を立派にするようなものではなくて、人の心を下品にしたり、殺人者を生んだりする毒である。毒であるからこそ素晴らしいのだ。この世の中にはない「毒」がつくれるからこその文学である。<br />
だから俺は「俺の作品で人殺しが出た」ということを誇りにはしないが、隠そうとも思わない。&#8221;<br />
<br />
ー<br />
岡田斗司夫『遺言』<br />
</em><br />
<br />
<span id="more-2363"></span><br />
<br />
小説だけに限らないが、普段、常識として、あるいは自分の中のルールとして、冒してはいけないと思っているインモラルな体験を追体験出来るからこそ、小説は素晴らしいのだと思う。裏切り、強盗、人殺し・・・。重要なのは、常識的か否かより、どれだけ人の心を動かせるかだろう。<br />
<br />
世の中には・・・残念ながら視野の狭い人も相当数いる。小説の内容が真に迫っていればいるほど、真に受けて、上記の少年の様に殺人を犯すものもいれば、それを受けて著者を非難するものもいる。優れた小説家であればあるほど、そういう目に遭うのだろう。しかし、本来小説を読むということは、小説の中の悪意を持った人の心理を追体験しながらも、そうやって、あらゆるタイプの人間の心理を知り、また彼も全く理解しがたい他人ではなく自分と全く同じ人間なのだ、と理解することなのだと思う。<br />
<br />
ところで、昔の小説家って結構破天荒な人も多かったでしょ？ 何度も心中未遂を繰り返したり、とか。今の世の中だったら、一回それをやっただけで、社会的に抹殺されてしまうと思う。しかし、そんな現代だからこそ、小説を読むことが必要なのだと思う。それも出来ればお花畑の様な善人しか出てこない小説より、悪人の出てくる小説の方がいい。その小説の中の悪人は、間違いなく自分の中の悪意を鏡に映したものに他ならない。しかし、そうやって定期的に自分の中の悪と向き合う行為をしておかないと、なにか調子のいいことが起こった時に、あっという間にダークサイドに落ちてしまうと思うんだよな。悪に対する免疫がない、とでもいうか。<br />
<br />
<br />
私は、誰それのことは全く理解出来ない、とはあまり言いたくない。それを口にすることは、自分の人間に対する理解力の不足を公表しているのと同じことだと感じる。彼も私も同じ人間。それを全く理解出来ない、と言ってしまえるということは、自分の中の醜い部分から完全に目を逸らしており、しかもそのことに気付いてもいない、ということに他ならない。<br />
<br />
その類いの戒めは・・・なかなか学校でも社会でも教わらない。それこそ詐欺に遭うとか友人に裏切られるとかいう経験でも積まないかぎり。だからこそ、小説の出番なのだ。(小説でなく映画、演劇でも構わないが。) どうにも現代は効率的に生きるのが流行ってるらしいから、小説よりもついつい実用書に手が伸びてしまうかもしれないが、定期的に自分の中の悪・・・筒井康隆のいう「毒」をきちんと見つめ直す、という意味においても、たまには小説も読んでおきたい。小説というのは生きる上で少しも役に立たない絵空事が書かれているだけのものではない。むしろ人間の、もっと言えばあなた自身の真実が書かれているのだと思う。</p>
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		<title>芸術と時間。</title>
		<link>http://bono-ism.com/blog/archives/2162</link>
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		<pubDate>Sun, 27 Jun 2010 16:46:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ボーノ</dc:creator>
				<category><![CDATA[小説、映画]]></category>
		<category><![CDATA[日々の考え事]]></category>
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		<category><![CDATA[映画]]></category>
		<category><![CDATA[音楽]]></category>
		<category><![CDATA[小説]]></category>

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		<description><![CDATA[マイミクさんが「携帯電話でもこれだけ高性能の動画撮影機能が付いていれば、そのうち静止画の必要性がなくなるんじゃないだろうか。」という主旨のmixiの日記に残していて、それについて、コメントを残しておいたのだが、そこで多少 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
マイミクさんが「携帯電話でもこれだけ高性能の動画撮影機能が付いていれば、そのうち静止画の必要性がなくなるんじゃないだろうか。」という主旨のmixiの日記に残していて、それについて、コメントを残しておいたのだが、そこで多少考えることがあったので、ここで再び論を展開してみようと思う。<br />
<br />
<br />
結論を言えば、やはり、静止画(写真)と動画は全く別物である、と考えざるを得ない。でも、これは感覚的に多くの人が思ってることなんじゃないかと思うけど。<br />
<br />
<span id="more-2162"></span><br />
まず決定的に違うのは時間の支配の仕方。10分の動画があったら視るのに10分取られる。まあ、1.3倍速とかで内容を理解しながら速く視る、みたいなことも出来るが、基本的に視る側に時間の支配権はない。<br />
<br />
一方で、写真の場合、時間の支配権は完全に視る側にある。<br />
<br />
例えば、自分たちの旅の想い出として、ムービーと写真集があるとしたら、ぱっと振り返るにはやはり写真集が有利。自分で時間をコントロールしながら、写真で足りない部分は想像力で「こんなんだったなぁ。」と補完出来る。<br />
<br />
また、技術的にも、効率的にも、動画の一コマを切り取って、写真に、というのも難しい。仮に動画の一コマがデジタル一眼レフ並の高解像度であったなら、動画は恐ろしいぐらいの大容量になるだろうし、それを処理するマシンにも相当なパワーが要る。<br />
それに、動画の撮り方と写真の撮り方は、意外と異なる。<br />
<br />
時間を使いながら流れの中で全てを表現しようとする動画と、一枚で全てを表現しようとする写真。それを考えると、動画の中の一コマに写真に使用するのに最適なコマが必ず存在するとは限らない。<br />
<br />
と、大体そんな様なコメントを残した。<br />
<br />
<br />
で、ここからさらに話を広げて、芸術と時間の関係性について。<br />
<br />
時間に着目して考えると、映画とか音楽って、やはり時間芸術である。もちろん、途中で止めたり出来るけど、リズムが狂う。リズムが狂ったり、連続した流れの中での印象が途切れたりすると、かなりの確率で制作者の伝えたいことが伝わってこない。そんな訳で、基本的には、再生されたら、終わるまで作り手に時間を預けなければならない。<br />
<br />
時間と心に余裕があれば、それもいいんだけど、そういうときばかりではない。そこへいくと、本とか写真を視る場合、時間のコントロール権はやはり視る側にある。<br />
<br />
本とは実に不思議なもので、本の世界に没頭していても、自分でここまで、と決めたら、さっと切り上げられるし、途中から読みはじめても、さっとその本の世界に戻れる。それは写真も同じ。<br />
<br />
そういう意味では、どうしても時間が細切れになりがちな現代人の生活において、本、活字の存在意義は高まる一方だと思うし、同じ意味で写真の必要性も薄れることは全くないと思う。<br />
<br />
<br />
現代はライフハックだ、なんだ、と言って、時間を効率的に使うのが良いこととされている風潮がある。やはりパソコンの影響だろうか。パソコンは単なる道具だから、同じ作業をするなら時間は短い方が良い。しかし、そういう考え方が、他の日常生活にも持ち込まれている気がする。<br />
<br />
話が少し飛躍するが、70年代初頭にプログレッシブ・ロックなる音楽が流行った。1曲がレコード片面全部(23分)を占めている曲もザラにあった。思うに70年代は、レコードもラジオも、プレイヤーがある場所に人間がわざわざ行って聴くのが普通だったし、時間概念的にも余裕があったのだろう。しかし、単なる流行の移り変わりのせいもあるだろうが、ウォークマンが生まれて、音楽を持ち歩ける時代になって以降、音楽の持つ時間が、人の日常生活の時間に勝つことが出来なくなった。それを考えると、今後、長尺の音楽が一般的に受けることはまず無いような気がする。<br />
<br />
映画も、金銭的に、というよりも、時間的に、贅沢な娯楽になっている様に思う。そして、時間が貴重になっていくにつれ、ライバルが、アトラクション、旅行などの体験型レジャーに移りつつある。いくら3Dの映画が出て来た、とはいえ、体験型レジャーがライバル、というのは結構つらい。<br />
<br />
<br />
実際に割ける時間、そして時間の使い方に対する考え方。これらが、実際の芸術に与える影響は大きい。時間芸術にとっては、現在は厳しい時代なのかもしれない。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>キンドルで読む人間失格。</title>
		<link>http://bono-ism.com/blog/archives/1323</link>
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		<pubDate>Thu, 10 Dec 2009 14:32:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ボーノ</dc:creator>
				<category><![CDATA[小説、映画]]></category>
		<category><![CDATA[日々の考え事]]></category>
		<category><![CDATA[日々の日記]]></category>
		<category><![CDATA[Kindle]]></category>
		<category><![CDATA[小説]]></category>
		<category><![CDATA[太宰治]]></category>

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		<description><![CDATA[太宰治も、まさか60年後に自分の本が電子ブックで読まれるとは思ってなかったであろう。しかししかし「青空キンドル」のおかげで、再び日本文学が熱い。・・・まあこれには日本語でまともに読める書物が今のところ、青空文庫にある様な [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
太宰治も、まさか60年後に自分の本が電子ブックで読まれるとは思ってなかったであろう。しかししかし「<a href="http://a2k.aill.org/" target="_blank">青空キンドル</a>」のおかげで、再び日本文学が熱い。・・・まあこれには日本語でまともに読める書物が今のところ、青空文庫にある様な、著作権の切れた古い作品しかないから、という理由もあるのだけれど。<br />
<br />
ともかく私のキンドル読了本、記念すべき第一作目は太宰治の「人間失格」だった。私、この歳(36歳!)にして太宰作品に触れるのは初めて。三鷹に住んでいた時は、しょっちゅう太宰が入水心中した玉川上水の辺りを通って井の頭公園に行ったりなどしていたんだけどね。<br />
<br />
さて、ババーンと私の拙い書評など。<br />
<br />
<span id="more-1323"></span><br />
<br />
<strong>「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」</strong><br />
<br />
書き出しがなんか凄い。別に特別なことはどこにも書いてないのだが、物語の展開を期待させる上で、これ以上の導入はそうない。話の内容は・・・まあウィキペディアとかに載ってるからそちらを参考に(笑) ・・・よく村上春樹の本を読んで、自分のことが書いてある！と驚愕する人は多い。私も極くフツーにその中の一人であった。そして私は残念ながらというか、この物語の主人公の葉蔵にも深い共感を持ってしまった。残念ながら、というのは、この葉蔵、自他共に認める人間失格者であるからである。<br />
<br />
葉蔵は他人を信じることが出来ない。理解することが出来ない。故に他人は恐怖の対象でしかない。道化に成りきり、架空の人格を築いて、なんとか世の中を渡っていこうと・・・生きていこうとするが、人生で何度かその道化を見破られ、文字通り、死んだ方がマシなぐらいの恥辱を覚える。私も葉蔵ほどではないが、陰鬱で、極く稀に饒舌になるときもあるが、基本的には沈んでいる。そして他人が怖い。私の場合は他人につまらない思いをさせたり、他人の期待に応えられなかったりするのが非常につらい。人々はこんな私にでも何らかの期待を寄せる。その期待はありがたいのだが、期待に答えられないことが非常につらい。<br />
<br />
さて、一方で葉蔵は鋭い洞察力を持っている。人間をよく観察していて、例えばその女性自身のパーソナリティーについての理解についてはまるで自信がないのに、女性の習性についてはよく理解していて、<br />
<br />
<strong>「用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。」</strong><br />
<br />
などとヌケヌケと抜かす。更に女性にこういう台詞を吐かせる。<br />
<br />
<strong>「……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。」</strong><br />
<br />
仮にこの私が、ほんの少しばかり女性にモテたことがあったとしたら、専ら上記の台詞の様な<br />
<br />
<strong>「男めかけのけがらわしい特質」</strong><br />
<br />
のみで成り立っていたのだと思う。<br />
<br />
葉蔵は最後には<strong>「脳病院」</strong>に入れられてしまうのだが、目下のところ私は脳病院には入れられてはいない。・・・にしても「脳病院」って。<br />
<br />
<br />
<br />
さて、この小説、非常に悲惨極まりない内容なのだが、何故名著として読みつがれるのだろうか。この葉蔵が太宰自身であることを疑う人間はあまりいないだろう。太宰は自分の陰惨な心模様をそのまま圧倒的な筆致でもって書き写している。だからこの小説には嘘がない。(葉蔵は嘘に嘘を重ねていくのだが・・・) 人は死なすは、女は騙すは、でロクでもないやつなのだが、ここまで正直に書かれると心が動かされてしまう。私はこの主人公の葉蔵をどう評価してよいのやら、正直よく分からない。ただ読むと思いっきり心を動かされる。自分が葉蔵になった気がする。他人の人生を追体験するのが小説だと仮定したら、この小説はチャンピオンなのかもしれない。<br />
<br />
<strong>「人間、失格。<br />
　もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」</strong><br />
<br />
ま、一回読んでみると良いですよ。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>1Q84。</title>
		<link>http://bono-ism.com/blog/archives/854</link>
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		<pubDate>Tue, 23 Jun 2009 16:20:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ボーノ</dc:creator>
				<category><![CDATA[小説、映画]]></category>
		<category><![CDATA[小説]]></category>

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		<description><![CDATA[またまた更新せず・・・。まあ写真ブログはそれなりに更新してるから、あんまりサボってる感じはないんだけど、やっぱり日常的に文章を書く訓練だけは怠ってはいかんなぁ、と思う今日この頃、皆さん、イカが好きですか？ ・・・やれやれ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
またまた更新せず・・・。まあ写真ブログはそれなりに更新してるから、あんまりサボってる感じはないんだけど、やっぱり日常的に文章を書く訓練だけは怠ってはいかんなぁ、と思う今日この頃、皆さん、イカが好きですか？<br />
<br />
・・・やれやれ(笑) そんなことはともかく。昨日、村上春樹の新作「1Q84」上下巻を(正式にはBOOK1とBOOK2かな？)を読了した。<br />
<br />
<span id="more-854"></span><br />
この記事を書くにあたり、アマゾンのレビューを見てみたのだが、あんまり最高傑作という意見はない。そこについては僕も同感かな。かなり厳しい見方だけど、村上春樹ならもう一歩突っ込めるだろう、もう一皮剥けられるだろう、と期待したのだが、そこまでは達してない感じ。ここまで来ると長編に関しては、これ以上のブレイクスルーは望めないのだろうか、とも思ってしまう。<br />
<br />
まず最初はあら探しから(笑) ストーリーが2人の主人公のエピソードについて交互に描かれる、というのは、もはや定番ともいえるスタイルだし、音楽、料理、文学、暴力、そして性描写とこの辺もお馴染みのスタイル。途中で「牛河」という人物が出てくるが、この邪悪なるものの使い、みたいな設定の醜い見た目の人物も、村上春樹の至る物語で登場する。まあ、そんな訳で、読者から、良くも悪くも村上春樹だ、と言われても全くもってしょうがないところではある。<br />
<br />
前回の長編「海辺のカフカ」はかなり前向きなトーンで、そこに村上春樹のひとつの変化を見出したものだったが、ところが今回の作品は、再びちょっと重い。ほろ苦い。前向きに終わるというのは「カフカ」と同じなのだが、そこには「カフカ」にはない、前向きになるあたっての悲壮感ただよう、やるせない感じのリセットがある。う〜ん、大作であるが故に、読了後のこの感じを短い文章で表す国語的能力を僕は持ち合わせてないが、この希望と絶望がミックスされながらも、ギリギリ前を向いて生きていける、という感覚は村上春樹ならではの表現で、僕としては、村上春樹がこういった翳りのある希望を提示してくれたことが素直にうれしかった。<br />
　<br />
　<br />
・・・ここからは少しネタバレかもしれない。僕が一番感心したのは、もしかすると青豆の章は、実はすべて天吾が考えた小説の一部かもしれない、と読者に想像させるところ。ところが、最終的には天吾自身も1Q84年に迷い込んでしまい、現実の世界と仮定の世界の境界線が極めて曖昧になってしまう。しかし、それ故、ますます青豆と天吾の愛の強さだけが、唯一確かなものとして強調されていく。色々興味深い伏線や登場人物が出て来て、中にはその後どうなったんだ？という説明が全くないところもあるが、結局のところ、これは青豆と天吾の完璧な愛の姿を探る純粋なラブストーリーであるからして、その他の枝葉末節がどうなろうと、僕はあまり気にならない。もちろん、伏線を広げるだけ広げてそれを全く回収出来てない物語は実に未完のものだと思うが、この「1Q84」に関しては、天吾と青豆の愛の確かささえ確認出来れば、それで良いのだと思う。<br />
<br />
例えば、エヴァンゲリオンとか、話を広げるだけ広げといて、結局話を纏めきれていない、という作品が最近多すぎて、その中途半端さが逆に、見る側が、全ての伏線が回収され、スッキリと全ての謎が解けて終わる、という作品を望む、という風潮が、現在の視聴者、読者には多少なりとも見受けられると思うのだが、少なくとも「1Q84」に関しては、肝となるストーリーはきっちり終了している。それでいながら、そこにわずかな希望と絶望の余韻を絶妙にまぶしてある。同じことを言葉を変えて何度も書いて申し訳ないが、とにかく物語の核はきちんと描き切られている。だから、この本にはこれ以上続きはないと思うし、またこれで十分だと思う。<br />
　<br />
　<br />
僕はクラシックやジャズには全く疎いので、いつもの様に、その辺りへの言及についてはあんまりピンと来なかったのであるが、今回の作品は特にチェーホフについての言及がかなりあり、数冊ではあるけれど、彼の本を読み、感銘を受けた身としては素直にうれしかった。小説の中でも言及されてるが、19世紀末の混乱したロシアで作家が生きていくのはとても大変なことだったと思う。しかし、それ故、本当の人間、家族、社会について書くことが出来た面もあると思う。村上春樹がチェーホフを越えられるか？ そして最後にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を越える作品を書くことが出来るか？ 時代的に言っても、村上春樹の作家としての限界を考えても、それは難しいかもしれない。少なくとも「1Q84」を読んだ限りでは、そう考えざるを得なかった。ただ少なくとも・・・僕は全くといっていいほど現代小説を読まないので、全く偉そうなことを言えた立場ではないが・・・村上春樹にはそのチャレンジ権がある様な気がする。「1Q84」は面白かった。本当に。久々に読後の甘酸っぱい余韻に浸れた。ただ、もう一皮剥けて欲しい。村上春樹からスーパー村上春樹に変身してほしい(笑) そして、「カラマーゾフの兄弟」の様な信じられない様な熱量を伴った感動を与えて欲しい。天吾が青豆に与えた絶対的な愛レベルのものを。それが適えば、僕はそれ以降、全く小説を読まなくても生きていけるかもしれない。</p>
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