ヤフコメとか見てると、まあ、よくも寄ってたかってそこまでベッキーのことを叩けるな、と思う。自分自身は未来永劫、人様に後ろ指さされることがない人生を歩む、との確信があるのかな。誰しも、犯罪者になる可能性がある、とまでは言わないが、魔が差して何かやらかす、あるいは何かの出来事をきっかけに考え方が大きく変わってしまう、とかあると思うんだけどね。
私はベッキーの件より以前から、ネットが発達してからより監視社会になったと感じていて、例えば太宰治が今の世に生きてたら、世間の注目を浴びた途端、過去をほじくり返されまくって、全く作品残せてないよな、とよく思っていた。世の中を変えて行くのっていつもアウトローな人で、そういう人は得てして、社会的常識から外れたところに生きていたりするが、今の世の中であれば、早々にネットで非常識なところを徹底的に叩かれ、そのまま社会的地位が無くなって終わってしまうんだろうな、と。そういう意味じゃ横山やすしも今の芸能界に生きてたら、とっくのとうに追放されていたことだろう。
五人組というのを日本史の授業で習ったけど、現代の日本ってそれを自主的に組んでる様な気がする。あるいは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」に、市民を監視するビッグブラザーというのがいたが、あれを自主的に作り上げてるとでもいうか・・・。
まあ、何が言いたいかというと、他人に容赦なく接する分、他人も自分に対して厳しく接してくるという覚悟というか意識がみんなにあるのか、と思って。そこまで考えずに叩いてる人がほとんどなんだろうけど、その手の集団での倫理の振りかざしが、社会の多様性を萎縮させる側面がある、というのをみんな少しは考えなくちゃいけないと思うんだよなぁ。別に堅苦しいことが言いたいわけじゃなくて、そうじゃないと単純により息苦しい社会になってしまうから。
俺が我慢してるんだから、お前も我慢しろ、度の過ぎた自由な行動は絶対に許さない、みたいな重ーい空気が既に流れていませんか?