自分探し。

昨日の写真で自分らしさを表現する、っていう話の続きなんだけど、じゃあ自分らしさってのは一体なんなのか、と。

昔、サッカーの中田英寿が、現役を辞めて、自分探しの旅をしたい、と言いだした時は、正直ずっこけたけど、今では多少その気持ちも分からなくはない。
しかし、結局、自分探しの答えなんてものは見つからないものだと思う。

ひとつ凄く僕の中で印象に残っているエピソードがあって、植木等の話なんだけど、以下スーダラ節の歌詞の一部を引用。

チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体(からだ)に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねえ

植木等のお父さんは、浄土真宗のお坊さんで、等という名前も人間皆平等、という意味でつけたのだとか。それはともかく、真面目な性格の植木等は、最初にこの歌を聞かされた時、この歌を歌うことによって自分の人生が大きく変わると確信したが、果たしてこんなふざけた歌を歌っても良いものだろうか、と悩み、父親に相談したという。

すると、歌詞引用の最後の部分まで聞いた父親は、「ちょっと待て。素晴らしい。親鸞聖人も亡くなる間際、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけないということを全部やってしまった。分かっちゃいるけど やめられねえ、の人生だった。と言っている。是非歌いなさい。?」と言われて、歌う決心をしたのだとか。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人という人は面白い人で、当時は出家している人間にはタブーであった肉食、妻帯などを行っていた。他力本願や悪人正機などが有名な思想だが、詳しくやウィキペディアや、もっと詳しくは歎異抄なりの親鸞に関する本を読んでもらうことにして・・・。

まあ、あくまで僕の解釈だけど、親鸞の場合、仏教も一生懸命勉強したし、出家もしたけど、結局はあれやこれやの誘惑に負け続け、悟りなんか開けなかった、と。人間ひとりがどう逆立ちしたった悟りなんか開けるはずがない。どんな人間も必ず如来の手によって救済されるが、自分はろくでもないやつなんだ、所詮悪いやつなんだ、と自覚している方が、多少はマシなぐらいである、てな、ことを考えたのだと思う。悪人正機ってのは大体そんな経験が元になってると思う。

僕も大体人生そんなもんだと思うんだけどね。最後まで結局何も成就することなく終わるというか。で、それをポジティブにとるか、ネガティブにとるかは人によって違うんだと思う。何も成就出来ないにしても、それを分かっていても、成就出来るよう努力するそのプロセスが大事だ、と考えるか、どうせ何やっても中途半端に終わるんだから、焦らずにのんびりやろうよ、と考えるか。どっちが正解とも言えないけど、どうせ何やってもうまく行かないんだったら、捨て鉢になってもいい、とか、何をやっても構わない、とかそうこととは違うと思う。

結局・・・命ある間は生きて行く、ってことが大事なんだと思う。明石家さんまがいつも、「生きてるだけで丸儲け」とか言って自分の子供の名前にも「いまる」って付けるぐらいだから、本気で言ってる人生哲学なんだと思うけど、ほかにも糸井重里のインタビューで「服一枚着させてもらっただけで勝ち」とか言っていた。なんか、過去に実家のさんま工場で弟さんを火事で亡くしたことがあるとかないとか聞いたあるけど、さんまは自分が寝ないのは、朝早くから夜遅くまでさんま工場で働いていた父親の遺伝子かも、とも言っていた。そういった苦労があって、およそさんまの普段のキャラクターからは想像出来ない、「生きてるだけで丸儲け」というストイックなフレーズが彼の人生哲学になっているのかもしれない。

「生きてるだけで丸儲け」ってのは、誰にも言ってはいないけど、目下のところの僕の座右の銘でもあって、本当にそう思うんだけど、丸儲けなんだから、別に進んであれこれしなくていい、とか、いう風についなっちゃうんだよね。それは間違っているとは分かっているんだけど、・・・・分かっちゃいるけど、やめられねえ(笑)

・・・ほんと、答えが見つかることがない。

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