今に生きる「自未得度先度他」の精神

NHKで「こころの時代」という番組をやっている。主に宗教関係者を呼び、宗教の教えがいかに今の時代を生きるヒント、礎になっているか、を説く番組なのだが(生き霊を呼び寄せてインタビューするとかいうエンタメ番組ではありません(-.-;))、見ると、さほど堅苦しくなく、説教くさくなくて面白い。

私が見た回では、東洋思想研究家の境野勝悟氏がゲストで、主に仏教に根ざした話をされていた。己を忘れる、というのが、大きなテーマで、ざっくり書くと、自分の持ってる主義、主張、善悪の観念、欲望、こういったものに囚われすぎなければ、すなわち忘れれば、心は平穏だし、他人とも仲良くやっていけますよ、という話であった。(こんなにざっくり書くといかにも幼稚な感じで氏に申し訳ない・・・)

その境野氏の話の中で印象的な言葉があった。

「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」

曹洞宗宗祖、道元禅師の言葉で、ごくごく簡単にいうと、自分の事は後回しにして、まず他人の為に成せ、さすれば、いずれ自分の為にもなる、という様な意味。これも、これだけ書くといかにも説教くさいし、己の欲望を捨て、全てを他人の為に捧げよ、とか極端なイメージを持たれてしまうかもしれないが、まあ、人間の理(ことわり)としては大体そういうことですよ、という教え。

最近、本当に思うのが、他人の事をあれやこれやと批判するのは、ほんとにしょうもないな、と。別に急に悟った訳でもなんでもなく、そういう人に限って、他人を批判すればするほど、どんどん自分を苦しめて、自分の立場を悪くしているだけの様に見えるし、そういう姿を見るとやっぱり得るところがないなぁ、と。自己を忘れる、そして他人にも自己があることを思い出す。それだけで、他人を思いやれる様になれるし、そうすれば、他人に接する態度も自ずと違ってくる。さらには、他人の自分に対する態度も変わって来て、最終的には自分もハッピー、周りもハッピー、となる。これは、どっちが正しい、どっちが間違ってるじゃなくてね。そこに拘るとまた批判につながる。まま、実際は人間関係そんなに単純明快にはいかないけどね。ただ、とにかく「自未得度先度他」というのは、なにも、何もかも擲(なげう)って、今すぐボランティアしてこい、とか、そういう話じゃなく、まず自己を忘れる、そこから自然とスタートするものなんだよね。ちょっと自我を抑える、少し他人の気持ちを忖度する。それぐらいならなにも出来ないことではないでしょう? これって人の為にすることでもあるんだけど、何より自分の心に安定をもたらすために必要なことなんだよね。

もうひとつ印象的な話。二宮尊徳の元に、不景気になり、商売がうまくいかない、儲からない、と相談にくる人がいて、二宮尊徳はその人を風呂に誘う。二人、浴槽につかり、
「お前、人生のコツはこうだぞ」
と手元の湯を胸元に引き寄せ、ふたたび押し返す。
「分かったか?」
「分かりません。」
「手ばかり見てもしょうがない。水の動きを見なさい。こうしてグッとかき寄せると一遍は自分の元に集まるように思えるが、すべて指先からこぼれ落ちてしまう。しかし向こうに押し出すときは、一遍遠ざけるようでも、周りから入ってくるんだ。お前を見てると、自分ばかり得を得るようなことを考えてるから、利益が逃げてしまう。相手のため、相手の利益を考えて、相手の方に押し出すと周りから入ってくる。」
というやりとり。これもまさに「自未得度先度他」と全く同じ理屈の話。

話にはなかったけど、松下幸之助もそんなことを言っていたと思う。ちょっと話は脱線するけど、二宮尊徳しかり、松下幸之助もしかりで、昔の商売人はまず他人の利益を考えていたと思う。ところが、最近は他人の利益は全く顧(かえり)みず、自分の利益ばかりを考える人、企業が増えて来た気がする。それこそ「自未得度先度他」で、それでは儲からないんだよね。道理でオレの株も儲からないわけだわ(笑) オレの株の運用益はともかく、だけれども、ビジネスはますますワールドワイドになり、商売の相手の顔、自分の上司、部下の顔も見えづらく、株主からは、四半期ごとに利益を出すようにせっつかれる。社会を豊かにする為でもあった商売が、段々その役割を手放して行っている。ちょっと怖い世の中だなぁ、と思う。

閑話休題。
上記の話を特にブログで書こうと思ったのは、話自体の面白さもあるんだけど、自分に照らし合わせて、そして身近にいる人を見てて、非常に納得出来るところがあったから。誰も批判しない、悪口のひとつも言わない。これも人として全く面白みがないけども、やっぱり度が過ぎると、言ってるあなた自身が不幸になりますよー、というのは、もう大昔から言われてた事だし、その辺りの人間に関することというのは時代が変わろうと不変のことなんだ、と思い知った次第。

考えると、鎌倉時代でもなんでもいいけど、昔はいまほど娯楽がないのはもちろん、人間や自然に対する統治が行き届いてなくて、殺人、不正、不条理、飢饉、そういったものがたくさんあって、自然災害もあって、北斗の拳的な?、そういうところがあったと思う。そんな中で、宗教者は今よりはるかに厳しく、人間とはなにか、生きるとはなにか、について考えたし、答えを問われていたのでもないかと。生き霊を呼び出してインタビューなんて実に切羽詰まってないというか・・・その話はもういいか(笑)、とにかく現代はそこまで切羽詰まった状況ではないと思うが、世界が狭くなった分、別の危機を迎えていると思う。例えば宗教間の対立。どことは書かないけど、昔決めたことを絶対守れ、それ以外は受け入れるな、と言っている。今を生きながら、自らすっぽり過去に囚われようとしている。危険だ。一方で仏教は・・・諸説あるのかもしれないが・・・過去に拘るな、新たらしいものを受け入れろ、と言っている。真逆。難しいよ、根底には格差の拡大とかあったりするから。ただ「自未得度先度他」の精神から世界がどんどん離れると、本当に人類全体にとって危険な気がするんだよね。

・・・話の風呂敷を広げすぎた。ま、そんなんでね。ちょっとした身近な生きるヒントを得る上でも、ちょっと宗教をかじるってのもたまにはいいもんだな、と、そんな話でした。

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