【再掲】 2011年3月11日。

東日本大震災が起きて丁度5年になる。あの日の自分は何をしていただろう?と思い、当ブログを見直しても何も書いてない。ショックで何も書かなかったのかな、と思いつつ、当時日記をつけていたmixiを覗いてみると・・・翌々日の3月13に日記を書いていた。特に外部に公開しても差し支えない内容だったので、ここで再度公開したいと思う。皆さんはあの日、何をしていただろうか?

今日は風邪ひいて完全にダウンしてた。モノというモノがなぎ倒された我が部屋を見ると、不謹慎だが、どうしても津波で街ごとなくなった陸前高田市を想像してしまう。大規模でも小規模でも物理の原則は同様に働く。椅子をひくと倒れた観葉植物の土がジャリジャリと音をたてる。

そんな訳で、暢気に日記など付けてる場合でもないのだが、少し動くと一気に体が火照ってしんどくなるので、自分の部屋の片づけはまた明日以降にする。こうやってパソコンに向かうのもあんまり風邪には良くないが、心のざわめきがなかなか止まらないので、少し書いて気晴らししたい。

3月11日という日は、やはり忘れられない日になるだろう。金曜日の午後、赤坂のとあるビルの17階でいつも通りのペースで仕事をしていたら、突如、最初は縦揺れ、そしてその後に横揺れがあった。いやな地震のパターンだ、と思っていたら、その横揺れが止まらない。僕自身、机につかまっていないと立っていられないほどの地震を経験するのは初めてだった。窓から見えたTBSのビルが大きく揺れていた。揺れがピークに達した時は、「こんなところで死ぬのは嫌だな」と軽く思った。「でも死ぬときに一緒なのは意外とこんなメンバーと一緒なのかもしれない」とも。

揺れが収まった後、ビルの防災管理センターと会社の人事総務部より避難指示が出され、17階から地下1階に。点呼などをして、本日の業務の終了と荷物がある人間はビルに入って取ってくることが許可される旨を聞いて、地下1階から17階まで階段で登る。17階まで登るのはそんなにキツくなかった。普段のウォーキングの成果がこんなところで出た。

午後4時、今考えればこの時間に既に帰宅を始められたのがラッキーだったが、赤坂を出発。地下鉄全線運転中止は知っていたので、特に深い考えもなく、小田急線や京王線が復旧するのに期待を賭けつつ、歩いて新宿を目指す。この時ほど、会社帰りのウォーキングをやってて良かった、と思った瞬間はない。前日まで3月と言えども、真冬なみの寒さだったので、耳当ての役割も兼ねているヘッドフォン、マフラー、手袋という完全防備でウォーキングをしており、当日も同じものを持っていた。それにしても、3週間前ぐらいから始めたウォーキングが、まるでこの日の為の準備であった様に感じられて、段々、良かったと思うより、少し気味が悪くなってくるぐらいだった。もちろん、やってて良かったんだけど。

両親と3人暮らしの私。新宿を目指す傍ら、家に電話するも繋がらず。会社の人に借りたテレホンカードで電話ボックスから自宅に掛けたら繋がったが、不在。ただ、ネットは繋がったので、iPhoneからずっとツイッターを見てた。そこで、新宿駅は既にすごい人だかりだ、ということを知り、新宿からの帰宅を諦め、公共交通が動き出すまで、歩くことを決意。ナビタイムの自転車モードで自宅までの最短ルートを割り出した。自宅の稲城市までは、渋谷、三軒茶屋を抜けて、世田谷通りに入り、多摩川を渡る。総移動距離は見なかったが、それでも気の遠くなる距離。しかし移動するしかない。途中のコンビニで肉まんとチョコレート、ホットの飲み物を買った。

途中まで新宿を目指していたのと、人波のせいで、普段徒歩50分弱で着く渋谷までに2時間弱の時間を要した。更に渋谷から三軒茶屋まで歩いて1時間。時間はまだ午後7時だったが、ペースの遅さに流石にあせってきた。ツイッターで各方面にクルマを出してくれるよう、要請した。三軒茶屋の薬局でエアーサロンパスを買って、世田谷通りを歩く。バス停を見ると、30分に1本だが、調布行きのバスがあるのを知り、調布まで行ければ、何とかなる、と思いつつも、世田谷通りが全くクルマの動く気配が無い。おそらく10台以上のバスを歩いて追い抜いた。午後7時30分。歩き出して、約3時間半。午後8時に休憩&晩ご飯の予定だったが、少し予定を早め、世田谷通り沿いの目に付いた中華屋に入り、高菜チャーハンを頼む。店は帰宅難民のせいか、普段以上に混んでいたらしく、なかなか料理が出てこない。さて、これだけ歩き、待たされたのだから、さぞおいしく感じるだろう、と思って、食べたが、そんなにおいしくなかった。普通のコンディションで食べたら、さらにまずかっただろう。ただ、料理が遅く出てきたのは結果的に良かった。更なる帰宅難民たちが後から入ってきて、食べ終えたらすぐに席を空けなければいけない状況だった。

そうこうしているうちに、友人が狛江駅までならクルマを出せる、とのことだったので、お言葉に甘えて、一路、狛江駅に向かう。後でネットで見てみたら、赤坂から狛江まで18.6キロ。更に自宅までは10キロあった。後10キロ歩くのは流石にキツかったと思う。クルマで送ってもらわなかったら、その後の行動も取れなかった。本当に感謝の一言。自分の用事もあったろうに。

クルマで送ってもらうも、狛江駅で少し待ったこともあり、結局帰宅は午後11時半に。その間、公衆電話からちょいちょい自宅に電話を入れていたのだが、ずっと留守電だったので、流石に両親のことが心配だった。いざ帰宅すると父親が一度帰宅した形跡があったが、家にはおらず、母親も不在。そして何より驚いたのが、家中の家具という家具が、倒れていたこと。ツイッターでやり取りしてた友人や、クルマで迎えに来てくれた友人も、家具倒壊の被害は被ってなかった様子だったし、自宅の留守電もしっかり働いていたから、そんなに被害はないものと思い込んでいた。自宅はマンションの10階なのだが、高層階なのが災いしたのだろう。しかし、今思えば、家に誰もいなかったのは寧ろラッキーだった。家具の倒壊は母親の部屋が特にひどく、その後、母親の居場所を突き止めるべくマンションの管理人室に出掛けていた父親と一緒に、大人の男二人掛かりで漸く母親の部屋の家具を元に戻した。地震が明け方だったら、何も出来ずに圧死していただろう。その後、余震で再び倒れそうな家具は、リビングに出しておいた。

割れたガラスや、派手に倒れた家具を元に戻して、時間は既に午前1時半。母親が留守電に避難場所をメッセージで入れていたので、ネットで場所を割り出し、バイクで避難場所に向かうことに。クルマを持てない経済力のない自分を呪う。寒さと疲れで、確実に風邪をひくことを予感しながら、母親が避難していた立川の体育館へ。途中、国道20号は午前2時過ぎにも関わらず、ひどい渋滞。すり抜けを繰り返して、漸く体育館についた。

簡単に母親を探せるかと思ったら、百人単位の人が既に毛布を被って寝ている。全くどこにいるか分からないので、諦めて帰りかけたが、恐らく市役所の人だと思うが、女性が「見つかりましたか?」と声を掛けてくれたので、見つからない旨を伝えると、避難した時間帯によっている場所が違うとのことで、比較的早い時間に入ったはずだ、ということと買い物用のカートを持っている筈、とのことを伝えると一生懸命探してくれて、見つけることが出来た。本当にみんな親切。

母親を起こし、話をすると、お前のバイクの後ろなんかに怖くて乗れない、ということだったので(笑)、体力的、精神的に大丈夫そうなのを確認し、念のため持っていった防寒具を渡し、買い物袋を少し受け取って、一人で帰宅。疲労のせいで、自分の運転にひどく酔った。翌朝、電車に乗って母親は帰ってきた。周囲のいびきとおばさん同士のおしゃべりがやかましく寝れなかったらしいが、防寒具があって助かったらしい。連れて来れなくて、無駄足、かつ役に立てない自分を情けなく思っていたが、多少なりとも役にたったのなら、良かった。

なんだかんだで午前4時。家の中を見ると、割れた食器類が更に片づいていた。父親がつい先程まで手を動かしていたらしい。が、眩暈のせいで、色々な人に感謝するのを忘れ、とにかく長い一日だった、との、ぼんやりした印象しか抱かず、やっとベッドに入った。

だらだら長く書いてしまったが、後で思い出してみてもここまで詳細には覚えてないだろうから、一応書き留めておく。それにしても、家族や友人に直接救われたし、主にツイッターを通じて、友人たちに非常に励まされた。改めてお礼を言いたい・・・が、それは会って直接、だな。しかし、本当にみんなありがとう。

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