元巨人の清原和博が語っていたエピソードで好きというかよく覚えている話がある。清原が現役時代、いつかしばいたるリストみたいのを作っていて、その中によくデッドボールを当てられていた元阪神の藪恵壹の名前も入っていたのだが、ある日甲子園で清原が練習しているとたまたま藪が通りかかって、その時に藪が清原に向かって「こんにちは。」と挨拶をしたらしい。その時清原は「あ、こいつ悪いやつちゃうわ。」とリストから藪の名前を消した、という。
まあ、ほほえましいエピソードというか、そもそも、しばいたるリストみたいなリストを作ってる清原もどうなんだ、という話しもあるが(笑)、こういうのは実社会でもよくあることだなぁ、と思って度々思い起こされる。例えば仕事などで愛想悪く対応されたとか、ぞんざいに扱われたと感じた時は、非常に嫌な思いをして、そこからしばらく接点がないとその相手のことを嫌なやつ、苦手な人という印象をずっと持ったままになりがちだが、それこそさっきの清原ではないが、廊下ですれ違った時にきちんと挨拶されただけで、思ってたのと違ってそんなに悪い人じゃなかったと評価を改めることがある。
思うに世の中の諍いのほとんどが、実際に話をせず、何かあったときの印象だけでその人を判断してしまう、という人間の傾向に由来している気がする。会社内でのいざこざ、国家間のいざこさ・・・ただ話せば分かると言っても自分が関係する人全てとその人の人となりが分かるまでじっくり腹を割って話す訳にも行かないし・・・そういうときにインターネットとか役に立つのかとも思うが、やはり字面だけのコミュニケーションだと伝わるものも限界があって、逆に対立の火種になってたりする。ネットがもっと発達して、人間の五感全てに訴えるようなツールになれば、遠くにいる人と本当に話し合っているようなツールに進化するんだろうか? それはまだ誰にも分からないだろう。
ただ最後に絶望的なこと書くけど・・・一人の人間だって、体調いい時と悪い時で考えることが違うし、機嫌がいい時と悪いときで言うことも違う。更にはみんな何らかのコミュニティーに所属していて、多かれ少なかれポジショントークが入る。そこに人と人とが出会うタイミング、シチュエーションでお互いの関係性も全く変わってくるし・・・そんなことを考えると人と人とが真に分かりあえるってのは無理があると思う。
となると、言ってることは分からないけど、そういうもんだと納得する、とか、私とはまるきり反対の意見だが、そういう人もいることを許容する、そういう寛容の精神こそが人間を救うのかもしれない。ただ私は寛容の裏にはある程度の無関心があるというか、やはり思い入れが強すぎるほど、どうして理解してくれないんだ、とか、どうして同じように行動してくれなんだ、という怒りの感情が湧き出てくると思うので、ある程度はお互いクールな方がいいんだろうな、と思う。長続きしてる夫婦なんか見てると、意外と趣味がバラバラでお互いの趣味に関して全く干渉しなかったり、という距離感があったりするし。
・・・思いついたままつらつらと書いたから、特に結論もないんだよな(笑) まあそんな話。