8月15日に思うこと。

8月15日。終戦の日。

改めて、沖縄戦などの被害者の声など、色々な報道番組を目にする。

戦争は悲惨だ。言うまでもない。

情報が統制されてはいるが、ウクライナの戦争を見ていても十分に悲惨さが伝わってくる。

だけど、いつも思う。戦争反対、だけでいいのか?と。

戦争の出来る国にするな、との声を良く聞く。

この声を聞くと、なぜ日本が戦略する前提なのだろう?なぜ日本に非がある前提なのだろう?と疑問を頂かざるを得ない。

ロシア、中国、北朝鮮。これらの国より日本の方が危険だというのか。あまりにおかしい。

自国を守る時、戦力の増強を検討するのは当然である。いくらこちらが平和を説いても、周りが武力を背景に物事に挑む国しかないのだから、それに不満を言っても現実的でない。ましては、その現実に目をつぶって、日本の武力増強を批難するなど、あまりに不誠実な態度と思う。

洪水が増えて来て、治水を含めて、色々検討するとしよう。その時に自然の生態系を破壊するな、とか、耳障りのいいことばを吐くのは簡単である。では、実際に治水対策をせず、そのせいで住居が水に流された人達に対する責任は誰が取るのか?

その責任を取るのは決して治水に対して批難をした人達ではない。その人達は被害のないところからただ眺めているだけである。

戦争とて同じではなかろうか。

”実際にどうすれば物理的な攻撃をされずに済むか?”

この事を真面目に考えて発言する人ほど、なぜか好戦的な人物として批判される。

本当に批判されるべきは、これだけ領土的野心を隠そうとしない列強に囲まれて、話せば分かる、などと説いている連中である。

日本は敗戦後、財閥解体など欧米によって国力の弱体化が図られたが、不幸中の幸いというか、アメリカには領土的野心はなく、かつて日本が東南アジアで行ったような民族同一化などというおせっかいな考えもなかった。

そしてほどなくして、朝鮮戦争が始まり、日本は西側の同盟国として、一定の役割を与えられるようになった。

つまり、敗戦後、誤解を恐れずに言えば、敗戦国としては(断りを入れるまでもないが、戦中はではない)、さほどひどい扱いは受けなかったのである。

ただ、実際の敗戦国というのはここまでラッキーが重なるものではない。言語を奪われ、文化はうち捨てられ、侵略国と同じ言語、同じ思想を重んじることを強要される。やがて元いた民族の存在は忘れ去られる。

これが本当に戦争に負けるということではないだろうか。

であるなら、戦争に負けてはならない。戦勝国がアメリカのように”親切”であることなど、ほぼ奇跡に等しい。

そんな敗戦国でありながら、自国の言語と文化が今でもきちんと継承されていることを当たり前のように思い、「話せば分かる」などと寝言を言っている連中は一体本当はどこの国の人間か?と疑いたくもなる。

これでもやはり、上記のような意見は熱狂的なネトウヨと認定されてしまうのだろうか? おそらく、海外の人に見せれば、そんな当たり前なこと、わざわざ書くまでないでしょ?というぐらい、普通の感覚だと思うのだが。

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