これから余裕のあるときに順不動で私が受講している「編集・ライター養成講座」で印象に残った講座の事を書いて行こうと思う。
最初は・・・一番最近受けた「校正・校閲の基礎」。講師は元・文芸春秋 校閲部長の岡本進氏。この講座の内容はまさにタイトル通りだが、今になってジワジワとあの講義、面白かったよな、と思い出す、なんだか不思議な講義であった。
校正は簡単に言えば、字面のマチガイ直し。一方、校閲は、その言葉である必然性のあるなしなど、読者、社会にどの様な影響を与えるか、まで考慮して行われる。私は、この校閲の作業に非常に興味をもった。
めくら・つんぼ・おし・・・これらは差別語である。じゃあ、これはいけない、ということですぐに赤字を入れるのか・・・決してそうとばかりは限らない。
例えば岡本氏が例として「盲(めくら)の乞食」という言葉を挙げられたが、これは差別語のツーショット。直すとすれば「視覚障害者のホームレス」といったところか。さて、これはばっさりと直してしまうのか?
答えは、そうとばかりは限らない、が正解。例えば、時代小説などで「視覚障害者のホームレス」では如何にも様にならない。大体、「視覚障害者」も「ホームレス」も少なくとも明治以降に作られた言葉であろう。江戸時代以前の物語にこれらの用語が出てくるのは不自然である。ではどうするか、というと例えば文章の冒頭に「この小説には不適切な表現がありますが、時代背景を考慮し、云々」との注釈をつけてやるそうだ。
例えば、盲でも、辞書を繰ってみると、色々な関連語がある。盲打ち、盲判、めくらうなぎ、に盲縞(めくらじま)・・・・ちなみに最後の盲縞とは近くで見ないと分からないぐらい細かい縞が入っている織物のことをいう。・・・てな具合にすっかり生活の中に浸透しているのである。
だから、決して上品な言葉ではないが、これらを十把一絡げに差別語として使用しない、というのはどうなんだろう。私なんかは、差別語に対して敏感で、差別語が出た瞬間にそれはダメだ!と言っているやつの方が、よっぽど潜在的な差別主義者の様に思える。平等主義は結構だけど、元々人間、平等に生まれないし、身体能力も頭の回転の速さ、得意なことも人それぞれ。差があれば、当然差別も生まれる。差別は実在するのに言葉だけなかったことにしてもしょうがない。それは偽善というものだ。
ま、そんな事で校閲を突き詰めると、表現の自由を取るか、人権の保護を優先させるか、などの難しい問題を、世間を雰囲気を掴みながら、バランスよく判断しなければならない。なかなかに難しい仕事であるが、やりがいがありそうな仕事でもある。
編集者・ライターも少なくとも、この校閲のマインドは持っていなければならないだろう。差別語と分かっていても、他の用語ではインパクトが薄い、意味合いが微妙に変わって困る、ということで、リスクを取っても敢えて差別語を使う場合もあるだろうし、逆に他の差別語ではない表現と差し替えても、さして全体に影響を与えないのであれば、表現を変える、というのも、プロの気配りというものだ。
と言う訳で、私も閑古鳥の鳴いている(泣いている?)当ブログとは言えど、特別な必要のない限り、マ○ーファッカーやアンクル○ァッカーなどと言った不必要な差別語は使わないように心がけたい、と思う。