渋谷のアップリンクという映画館で『100000年後の安全』という映画を観たんだけど、それはそれは退屈な映画で・・・。フィンランドで高濃度放射線廃棄物を地下深くに埋める、その現場に潜入する、というドキュメンタリーなんだけど、ドキュメンタリーのくせして、背景の解説とかが凄く少ない。取材対象の人間が数人しかいない。後、オンカロとよばれる地下施設での映像が、ミュージックビデオかと思うほど、幻影的に撮っていて、いやいや、そういうことじゃないでしょ、と、ずーっとイライラしながら観ていた。映画を撮るなら映画、ドキュメンタリーを撮るならドキュメンタリー、はっきりさせてくれないと。ドキュメンタリーに作家性などいらん。
・・・期待して観ただけに思わずこき下ろしてしまったが、僕の印象では観るに値しないドキュメンタリーだった。もちろん映画としても。
で、アップリンクで観た予告編の中に「六ヶ所村ラプソディー」があった。そちらの方がよっぽど面白そうだったので、そっちを観に行こうと思ったのだが、どうにも時間が合わない。そんな訳で、DVDを買って観て見た。結論から言えば、素晴らしいドキュメンタリーだった。
今や、震災の前と後で、日本人全員のエネルギー政策に対する興味と見方が、完全に変わってしまった。ところが、このドキュメンタリーが作られたのは2004年ぐらいからの数年間で、当然今ほど原子力について考えられてない時代。このドキュメンタリーは、そういう言わば平時の人々の率直な意見が聞ける貴重な資料でもある。今はもうこういうものは作れないし、10年後も無理だろう。しかし、人間の本質というか本音はむしろ、この「六ヶ所村ラプソディー」の中にあるものなのではないか、と思う。
後、評価したいのが、取材する姿勢。もちろん問題提起する為に撮ったのだから、監督の頭の中には原発反対、という意志があったのだと思うのだが、それでも、反対派、推進派、色んな立場の人からなるべく偏り無く意見を引き出そう、という姿勢が感じられる。後、先見の明があるなぁ、と思ったのが、専門家の意見として、現在の原子力安全委員会、委員長の斑目春樹氏と、今や反原発の急先鋒の学者と知られる京都大学の小出裕章氏に取材をしているところ。
更には使用済み核燃料再処理工場の先輩にあたるイギリスのセラフィールドにも取材に出掛けている。原発に関しては、僕もそれなりに調べては見たが、諸外国の再処理工場の現状などは一切知らず、セラフィールドでの現状はかなりショッキングであり、新たな発見の連続であった。
「六ヶ所村ラプソディー」の中で印象的だったエピソードをひとつ。苫米地さんという青森県十和田市で、農薬に頼らず米作りを続けている女性がいる。彼女は消費者と直接取引をし、苫米地さんのところのお米はおいしい、とお礼の手紙をもらうほどだった。しかし、再処理工場のアクティブ試験が始まり、微量ながらも放射性物質が自分のところの米にも含まれるかもしれない、と正直に、消費者に手紙を送ったところ、今年は遠慮させてもらいます、という手紙を受け取った。近隣の農家には余計なことを言うんじゃないという非難を受けたそうだが、そういう姿勢こそが無農薬で米を育て続けてきた彼女の矜持だったのであろう。
それでも苫米地さんは、出来てしまったものはしょうがない、と原発に大しては中立の立場を取っていたのだが、ある日、原発の勉強の講師で来ていたとある先生に、「中立っていうのは、暗に賛成してるのと同じなんだよ。原発には賛成と反対のふたつしかないんだよ。」と教えられた。始めはそんなものかな、と思ったそうだが、自分は賛成とは言ってない、原燃が悪い、あいつが悪い、と言っているのは楽だが、それはやはり原発について、賛成しているのと同じことで、しかも、自分は批判されない安全な立場にいる。その中立でいることの怖さに気付いて、はっきりと反対派に回ったという。
細かい数値は分からないが、苫米地さんとこのお米の放射線量というのは、今色々騒がれてる放射線量から比べたらごくごく微量なのだと思う。それでも、震災前の感覚では、購入をためらう人が多数いた。苫米地さんのところのお米を贔屓にしていたにも関わらず。しかし、それが極く一般的な市民感情だと思う。
僕は前から、福島の農家の人が東京のアンテナショップみたいなところで、安全です、と言って、野菜を売ってるのに疑問を持っていた。そりゃあ、福島の農家に落ち度なんてひとつもない。だけど、安全か否かの判断はあくまで消費者が決めることだ。それに風評被害という言葉も嫌いだ。風評じゃなくて、本当の被害だろう、と。だから、本当に消費者に納得して買ってもらいたいのであれば、この野菜はこれこれの値が出てます、それで良ければ買って下さい、というのが筋だと思う。
目に見えない放射能の恐怖におびえて、必要以上に買い控えるのはもしかしたら愚かな行為かもしれない。しかしそれが普通の感覚ではないか? 震災前、苫米地さんの努力、そしてお米のおいしさを知りつつも、放射能汚染を恐れ、お米を買うのを控えた人達・・・それも普通の感覚だし、誰がそれを責めることが出来ようか。
エネルギー政策、特に原発に関して、安全性と経済性はトレードオフだという。池田信夫氏のブログによると、現在の価格で、原発を止め、いわゆる再生可能エネルギーで賄おうとすると月8000円の電気代が2万円になる、という。今の騒ぎも一段落すれば、本当に脱原発が正しいかどうか議論が起こると氏は言う。まあ、そうかもしれない。しかし、最後はやっぱり自分の勘で判断するしかない。僕にとって原子力はあまりに気味が悪い。自分たちの世代だけでは絶対に処理出来ないゴミが出るエネルギー。あまりいいかっこはしたくないが、かなり受け入れがたい。僕は知ってる人は知っての通り、電子ガジェットをこよなく愛する人間なので、人より電気を使っていると思う。それでも本当に原発から脱することが出来るなら・・・多少の我慢はしますよ。それに、原発がなくなることによって、電気代が高くなったり、電力使用に制限が出来たとしても、それはそれで、順応出来ると思う。技術と人々の創意工夫が痛みを最小限に食い止めると思う。
エネルギー政策には中立がないんだとしたら・・・やっぱり私は原発反対。そういうよりしょうがない。どちらでもないとはもう言えない。