昨日、『ゲット・ラウド』という映画を観た。原題は『IT MIGHT GET LOUD』。
いきなり脱線するが、この手の原題を縮めただけの邦題って、日本人の英語力を馬鹿にしすぎてると思うんだよな。仮に日本人がタイトルの意味を取れないとしても、逆に英語の対する敬意がない、というか。だって、『Get loud』じゃ意味違ってくるでしょ。でもあれか、『イット・マイト・ゲット・ラウド』じゃ、紙面の都合上ちょっと長すぎたりするのか。うーん・・・。
さて本題。この映画、なんの映画かと言えば、『レッド・ツェッペリン』のジミー・ペイジと『U2』のジ・エッジ、そして『ホワイト・ストライプス』のジャック・ホワイトが、ギターについて語り合う、という内容のドキュメンタリー。
3人のトークセッションが中心に据えられてはいるが、映画の大半は、それぞれのギタリストの半生を綴ったドキュメンタリーと単独インタビューである。
興味深かったのは、3人とも非常に個性的なミュージシャンではあるが、それと同時に、それぞれの生まれ育った土地、時代を反映している典型的なミュージシャンでもある、というところ。
ジミー・ペイジが若かりし時、1960年代にイギリスで流行っていたのは、スキッフル。洗濯板がパーカッション代わりであったスキッフルはお金が掛からないこともあって大流行し、ページ曰く「町内会の行事に参加するがごとく、スキッフルバンドに入った。」そうな。そこでギターを担当したページは、やがてスタジオ・ミュージシャンとして重宝され、歌謡曲から、BGM、テレビやラジオのジングルまで録音するようになる。しかし、ギターの可能性に魅了されつつも、ただスタジオに入って指定されたパートを弾くだけ、という行為に、爪の先ほどのクリエイティビティを感じなくなったページは、『ヤードバーズ』に参加し、そこで自身のギタースタイルを探るようになる。
そしていよいよ『レッド・ツェッペリン』を結成する訳だが、『レッド・ツェッペリン』におけるページのギターサウンドの多様性について考えてみると、ジャズ、ブルース、カントリーなどが元となったスキッフルと、スタジオ・ミュージシャン時代の様々なレコーディングで得た豊富な知識がベースになっていることがうかがえる。また、映画では触れられていないが、ボブ・ディランやビートルズなど、音楽の枠を超え、ひとつの文化を形成した同時代のミュージシャンの影響も大きかったと思う。60年代という、音楽にとって希望の満ちた時代に生きたことも、ページのクリエイティビティを大いに刺激したことであろう。
さて、『U2』のジ・エッジ。『U2』は70年代にアイルランドで結成されたバンドであるが、『U2』の音楽性に大きな影響を与えたのが、パンクロック。『ザ・ジャム』『クラッシュ』『セックス・ピストルズ』などを見て、ジ・エッジは「これなら俺らにも出来る。」と思ったそうな。パンクロック・ブームは短く終わったが、その影響は大きく、音楽的な敷居の低さから多くの若者がパンクロック・バンドを結成し『U2』もそのうちのひとつだった。80年代に活躍するバンドは当然ながら、初歩的な演奏技術、音楽的知識に止まらず、電子音楽の洗礼を受けながらも、独自の進化を続けるのだが、そんななか、アイルランドという民族対立、宗教的対立の多い地域で育った『U2』は、政治的メッセージの強い曲を発表し続け、反体制、反骨精神などパンクロックの影響をバンドの中に持ち続けた。
多くのバンド、ミュージシャンがテクノなど電子音楽への接近を試みたが、硬派なイメージのある『U2』も主にギターのエフェクト類において、新たなテクノロジーを導入していった。ジ・エッジの代名詞とも言えるディレイサウンドもそんな中確立された。私が興味深いと思うのは、今でも最新のテクノロジーの導入について貪欲なのが、意外と40や50歳台のパンク、テクノの洗礼を受けた世代である、ということ。あれだけ硬派なイメージだった『U2』も90年代には一転してダンスサウンドへの接近を試みた。
最後に・・・『ホワイト・ストライプス』のジャック・ホワイト。正直『ホワイト・ストライプス』とかはあまり聴いてないので自信を持って説明はしづらいが・・・。映画を見ると、ロバート・ジョンソンやサン・ハウスなどの、非常に古いブルースの信仰者である模様。ジャックが育った地域はアメリカのデトロイトで、彼が幼少期には既に自動車産業は斜陽になっており、ジャックと同じ白人たちは次々と街を出て、ジャックの家族はメキシコ人たちと共にデトロイトに住み続けたという。そういった彼の育った背景を見ると、黒人の苦労を歌ったオールド・ブルースが素直に彼の心を掴んだのも理解出来ないことはない。
ジャックが育ったデトロイトを見ても分かるように、90年代には既にアメリカンドリームは消失し、それと共に音楽に希望を託せる時代も終わったのだと思う。一方で、色々な音楽を耳にするチャンスはたくさんあり、ジャックの様にオールド・ブルースに傾倒する者、電子音楽を押し進める者、など、それぞれが純粋に自分の好みで音楽を楽しむ時代になった。
・・・と、それぞれの世代を代表する3人がトークセッションをする訳だが、正直、この映画の肝になるはずであったろうこのパートはそれほど特筆すべき点がなかった様に思う。しかし、大物同士の対談でも、お互いにそれぞれの世界が出来上がっていたりすると、出会っても、けん制しあうだけで終わってしまうのはよくある話で・・・。3人のパートでの見所は、ジミー・ページが『レッド・ツェッペリン』の曲を弾き出した時、ジ・エッジもジャックもまるで一素人の様に「おお、本人が、ツェッペリンのフレーズを弾いている!」と子供の様に目を輝かせているシーンぐらいだろうか。
そんな訳で・・・まあロックが好きじゃないと、ちょっと退屈する映画かもしれないが、逆にそれぞれのバンドに思い入れがあれば、お宝映像は満載だし、それぞれの背景が理路整然と描かれていて、偉大なるロックの歴史について、考えずにはいられなくなる・・・そんな映画である。もう少し普遍的な目で見れば、彼らほど才能にあふれる人々でも、自分が育った時代に受けた影響というものから永遠に逃れられないものだ、ということが分かるし、それこそ、好きこそものの上手なれ、で、もちろんそれぞれに才能はすさまじいものがあるだが、彼らの誰もが、単純に他の人よりもそのことに夢中になっている時間が長いだけ、ということが分かる。
邦題についてのご意見、全く同感します。意味を成していませんものね。日本で公開が決まった時は喜んでいましたが、この邦題を目にしてがっかりしてしまいました。日本語にしても英語にしても、言葉に対してもっとリスペクトを持ってもらいたいですね。
私はZeppelin、及びJimmy Pageのファンなもので、ジミー目当てに観に行きましたが、大スクリーンでヘッドリー・グレンジを見られるだけでも有難く思いました。