ノーベル文学賞の季節が来る度に、村上春樹が叩かれてがっかりする。

 
村上春樹はなぜノーベル賞を取れない? 大手紙が指摘していた「いくつもの理由」 (J-CASTニュース) – Yahoo!ニュース

ノーベル文学賞の季節になると毎回村上春樹が受賞するか否かが話題になるが、そのたびにネットでdisられているのが、ファンとしてはつらい。

コメント見てると、「そもそも面白くない」って意見がとても多いのだが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読んでもそう思うのだろうか? まあ、あれ読んでも面白くないというなら仕方がない。


村上春樹もどこかで書いていたが、村上春樹自身が凄い天才という訳ではないと思う。いわゆる普通の人だ。もっと博識な人もいっぱいいるし、頭の回転の速い人もいっぱいいるだろう。ドストエフスキーみたいに親父を殺されたわけでもなければ、自身が死刑になりかけた訳でもない。国のために戦った訳でもない。それでも、”普通の人”ながら、人間を深く洞察する、その・・・根性とでもいうのか、ベストセラー作家になっても、生活のリズムを崩さず、抜群の忍耐強さとバランス感覚で、人間の意識の奥底に潜り込む精神の強靭さ、これはやはり一流だと思う。

まあ、よく『村上春樹が書くと・・・』のコピペシリーズにあるように文体や比喩の用い方に一定のクセがある。それがどうにもしょうに合わないという人は読めなくてもしょうがないのかもしれない。これはいうなれば、話はちょっと面白そうではあるが、作画がどうしても受け入れられない漫画、みたいな感じだろうか。

後、コメントで気になったのが、「若い時読んでファンになって色々読んだが、今改めて読んでみると、全然ぐっと来なかった」というやつ。これはひょっとしたらあるかもなぁ、と思った。どの年代に読むか、というのは、読書体験を凄く大きく左右するファクターだと思うし、またどの時代に読まれるか、というのも作品の印象を大きく変える。例えば、ヘミングウェイは時代を経るにつけてその存在価値が薄れてきているが、フィッツジェラルドは時代を超え、ますますその存在意義が大きくなっている、などという考え方をする人がいるが、まあもしかしたらそうなのかもしれないが、最近はなにも時代を超えて生き残っている作品だけがいい作品だとは思わなくなった。

村上春樹の作品も、もしかしたら上記の例えで言うヘミングウェイ的なのかもしれない。10代や20代のころを多感な時代、あるいはバブル時代の熱狂の中で、特に時代に警鐘をならすでもなく静かに人間の本質を見つめるようなスタンスが、より村上春樹の作品の面白さを倍増させたのかもしれない。だから例え今読み返してあまりグッとこなくても、若い頃に読んで強く影響を受けたのならば、それでいいのではないかと思う。少なくとも私は若い時にこの人の作品を読んで随分と影響を受けた。サザンの歌で『吉田拓郎の唄』という歌があるが、その歌詞の中の一節に

「お前の描いた詩(うた)は俺を不良(わる)くさせた」

というのがあるが、私の気持ちもまさにそんな感じで、私の場合、彼の本のせいで、村上春樹をこじらせた様な人間になったと言っても過言ではなかった。

まあ、そんな人なんで、例え今は昔ほど傾倒していないとしても、やはり読む価値もない、とか、あまつさえ、村上春樹のファンはファッションで本を読むような人達ばかりだ、とは言われてしまうと本当にがっかりする。故に、当の村上春樹本人がノーベル文学賞にまつわる騒ぎについて辟易してるぐらいなのだから、もうこうやって毎年騒ぐのも止めてほしいなぁ、と思う。

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