最近、歴史が面白いと思うようになって来た。・・・この事、少し前にも書いたろうか?まあいいや。こういうのも年齢によるものなのだろうか、私の場合、40歳になる前に歴史に興味を抱いたことなど全くなかったのだが、それでも以前より時事問題には興味を持つようになっていて、そこから徐々にではあるが、現代政治学、地政学、日本史、世界史と興味が出てきた。高校生の時は世界史なんて一番嫌いな授業だったが・・・。確か、ソフォクレスとかヘロドトスとかの人名が全く覚えられず、そこで完全に戦意喪失していた気がする(笑)
応仁の乱
で、それらに関する話題の本は少し買って読んだりもしてるのだが、勉強するにあたってテレビ番組をチェックするのが意外と手っ取り早かったりする。最近欠かさず見てるのがNHKの『英雄たちの選択』。この前、今空前のブームらしい(?)応仁の乱のスペシャル番組をやっていたが、結構面白かった。応仁の乱って、教科書の表だけ見てると、西軍、東軍のチーム編成が全く頭に入ってこない。将軍家(足利氏)、畠山氏、斯波氏が後継者争いなどでそれぞれ東軍、西軍に分かれたりしているので、名前だけ見ていたのでは対立構造が全く分からない。そこを三管領のひとつである畠山氏の跡目争いを発端とし、いかにそれぞれの陣営がそれぞれの思惑を元に東西に分かれていったかが、丁寧に解説されていて事情がよく分かった。
ちなみに少ーしだけ解説すると、当時の室町幕府は将軍家たる足利氏を中心に将軍の補佐役である三管領を細川・斯波・畠山の三家から、侍所という京都を守護する役所を赤松・京極・一色・山名という四家から出していて、これらの総称を三管四職と言った。当時の将軍家の求心力は弱く、三管四職の守護大名等のメンツも立てながらという状況で、将軍家の権力基盤の弱さが応仁の乱の長期化を招いた大きな要因とも言える。
ところで、最終的大きく対立することとなった東軍の細川勝元と西軍の山名宗全であるが、細川家、花の御所(将軍家)、山名家の屋敷は、それぞれ徒歩で10分ずつというような非常に近い場所にあった。そうでありながら、この乱において大将格は誰も死んでおらず、こういうところにそれぞれの大名の公家っぽさを感じた。ままごととは言わないが、どの大名も本気で将軍家打倒などという野望は持っておらず、下克上で力を持ってるものが上に立つという本気の戦国時代に突入するまではもう少し時間がかかる。
パキスタン
所変わって現代のパキスタン。・・・話が変わりすぎだな(笑)なんでパキスタンかというと・・・その前に、私は最初にも書いたが現代政治学、地政学にも興味があって(まあ要するに世界中の歴史がちょっと気になっているということ)、その世界史全般を勉強するのにちょうどいいのが放送大学。放送大学は入学しなければ無料で視聴出来る(入学すれば、単位も貰えるし(もちろん試験をパスすればの話)、ちゃんとした紙の教材が貰えるらしい)。その放送大学の講義で「現代の国際政治」とう講義のパキスタンの回を丁度見たので、パキスタンの話。
これがまた面白かった。1947年にインド・パキスタンがイギリスから独立する。最初はインドとそのインドを挟む形で西パキスタンと東パキスタンとがあった。しかし、その後、東パキスタンはバングラデシュとして独立し、西パキスタンがそのままパキスタンとなることに。
ちなみにパキスタンの名前の由来であるが・・・それはこちらのサイトの記事を見てもらおう。
「>秘中の秘: パキスタンの国名の由来は?」
ヒンドゥー教のインドとイスラム教のパキスタンは仲が悪く、カシミール地方の領有権を巡って揉めているいる他、核開発競争も繰り広げてる。
一方、1979年、パキスタンの北側にあるアフガニスタンにソ連が侵攻したことに伴い、共産勢力の拡大を恐れたアメリカがパキスタンに大量の資金援助と武器供与をしている。アフガニスタンのソ連への反抗に伴い急速に拡大したイスラム原理主義、それを側面的に援助した西側諸国、そういった背景を元にターリバーンなどのイスラム原理主義が一気に力を持ち始め、やがて中東の混乱、西側諸国におけるテロの続発を招いているのはご承知のとおり。
まとめ
歴史を勉強していると、一見、自分に何にも関係ないことの様に思えて、実は身近にその存在を感じられることがいくつもある。例えば、西陣織の西陣という名前は、応仁の乱の西軍の陣地、ということらしいし、カシミール地方で言えば、ヤギの毛織物のカシミアはカシミールが元々の原産、またペイズリー柄というのはこれもカシミール地方でよく見られた模様であって、この模様を気に入ったスコットランド人が自国に持ち帰りペイズリー地方で織物を大量生産したことが由来とのことである。
そんな訳で、これからも少しずつ歴史を勉強して行きたいと思う。