東京五輪2020以降のデジタル・タトゥー


開会式演出 小林賢太郎氏が解任 – Yahoo!ニュース

なんか歴史の流れが変わったなぁ、と思うね。

小山田圭吾の辞任については、日本人ならではのポリティカル・コレクトネスのいやらしさを象徴する案件だと思って見ていたが、小林賢太郎の件では、ポリコレで言えば、海外の方がもっとえぐい、海外の方がより問答無用、ということがよりはっきり分かったと思う。

小山田圭吾の場合は、パラリンピックの音楽を担当するのに自分自身が苛烈な障害者いじめを行っていたということだから、まあ退任も仕方ないかな、と思っている。それでもいじめは小学生時代、インタビュー記事も90年代のものということで、またずいぶん古い案件んをほじくり返されたものだなぁ、と正直思った。そして、それに続いた、別のテレビ局の小山田圭吾が関わった作品も放送延期、あるいは音楽差し替えなどに至っては、正直やり過ぎというか、テレビ局側が炎上の火の粉を浴びるのひどく嫌って、すぐ切ったという気がする。ここまでいくとただの自業自得で済むのかな?と思う。

今回の件で、当時いじめを受けていた障害者の親御さんにわざわざインタビューしに行った記者もいるらしいが、その行為は明らかにゲスいし、今回の小山田圭吾と同じぐらい叩かれてしかるべき行為だとも思う。ただ、この記者自体を叩いても話題にならないから、というだけで叩かれていないだけだろう。

一方で、なんだかやり切れないと思うのが小林賢太郎の解任。小山田圭吾は色々周囲から言われてからの「辞任」だったが、こっちは問答無用の「解任」だからね。解任決定の前日に米ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が小林賢太郎に対する非難声明を出していたということだが、こういう外圧があると判断が早いね、日本は。

小林賢太郎の問題となったネタ自体は見てないが(見てないクセに論評するな、という意見の人もいるが、この手の批判する人でネタ自体、そしてその前後のコンテクストまで全て検証して意見する人なんて極々わずかだからね)、内容としてはホロコーストを賞賛、あるいは被害者を揶揄する内容ではなく、次から次と出てくる言葉遊びのような一貫の中に問題の発言があったようなのだが(海外の人からすればまさにその気軽さがダメなのだろうが)、もうそうなるとじゃあどんな笑いならOKなのか、という気がする。日本国内でもまだ人気が出るかどうか分からない若手の時期に(しかも今の様なポリコレの雰囲気が世間を覆っていないなか)、世界の反応を見てネタ作りするやつなんていないしね。

ホロコーストに関する世界の啓蒙活動に関して言えば、前からおかしいと思っていた。ホロコーストを人類史の中で大きな教訓とすべきことは間違いない。私もユダヤ人医師で実際にアウシュビッツに収監されていたフランクルの『夜と霧』を読み、恐ろしさを追体験した。

だけども、少しでも揶揄の対象にしてはならない、ヒトラーが行ったことは全てが悪で、よい政策はひとつもなかったこととしなければない、という今の空気は明らかに行き過ぎである。結局、誰もが祟らぬ神に触りナシ状態で、誰も触れることもなくなり、やがてどうしてナチスは行きすぎたのか、どうしてホロコーストは起こってしまったのか、という基本的な省みなければならない部分をかえって遠ざけてしまっている。

ヒトラーは極悪人でした、はいオワリ。では自分に関係のない余所の国の遠い出来事で終わってしまう。ヒトラーも最初から悪人ではなかった。よい政治をしようと思っていた。しかし、ここで間違った。という、まずはヒトラーを良い行いも悪い行いもする1人間として捉えないと誰の反省にも繋がらない。

それが今ではホロコーストを例え冗談でも揶揄してはならないとし、取り上げた人間を徹底的に糾弾するのが目的となってしまっている。

結局の所、ホロコーストなど起こすはずもないが、しかしその事自体は知っておかねばならい一般人は、そのことについて触れるのはもちろん、考えることをやめてしまい、次なる独裁者が生まれつつあるときに、ホロコーストの反省からこの独裁者を糾弾することの妨げになってしまっていると思う。

ホロコーストについて、いろいろ書いたけど、これって結局BLMでも、今回の五輪の辞任騒ぎでも根っこの所は同じだと思う。BLMの活動のことを少しでも批判したら新聞社クビになるとか、そういった硬直した偏った空気は、揺り戻しで一気に逆の方向の暴力に繋がりかねない。

そういう意味ではどこかで許しの線引きみたいのが必要なのではないだろうか。人間色んな間違いを犯しながら、一人前になる。現代であれば50歳になってようなっと一人前になった、などという人もいるだろう。それを過去の1点のみを取り上げられて永遠に戦犯とされてしまう様な世の中ではあまり息苦しすぎるが、現にそうなりつつある。

その怖さがはっきりと表面化してきたのが、今回の五輪解任騒動だったと思う。

・・・ここで終わればキリがよかったかもしれないが、もう少しだけ(笑)

小山田圭吾も小林賢太郎も私と比較的近い世代なので、私も彼らが若手の時、どういう空気感で過ごして来たかが、なんとなく分かる。私は90年代に「鬼畜系」なる文化(それを文化と言っていいのか・・・)があったのは知らなかったが、2ちゃんねるなどのSNSはまだなく、一部のとがった雑誌があるのは知っていた。もちろん、その後のSNSやネット世論が生まれることなど想像だにせず、いうまでもなく、若気の至りがその後数十年もネット上に保管され、ここぞというタイミングで現れてるなどいうリスクを全く考えていなかった。

私が危惧するのは、今回の辞任騒動を今の若手クリエイターが見てどう思うか?という点だ。当たり障りのないことをやっていても注目されないが、ポリコレに少しでも抵触するようなネタは危険すぎて取り上げられない。随分、困惑しているのではないかと思う。

ともかく時代は変わったのだ。いじめは許されるべきではないし、ホロコーストを茶化すべきでもない。そして小学生時代から現在までそのような兆候が見られた表現者は必ずネット上の誰かによって告発され、失墜していく。一件、いい世の中のように思えるが、「水清ければ魚住まず」という故事もある。

まあともかく、現在においては太宰治の様な作家は最初の方で潰されるし、勝新太郎のような破天荒な芸能人もすぐ干されるだろう。我々はそう”清流”の中で暮らす覚悟を決めなければならない。

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