マイミクさんが「携帯電話でもこれだけ高性能の動画撮影機能が付いていれば、そのうち静止画の必要性がなくなるんじゃないだろうか。」という主旨のmixiの日記に残していて、それについて、コメントを残しておいたのだが、そこで多少考えることがあったので、ここで再び論を展開してみようと思う。
結論を言えば、やはり、静止画(写真)と動画は全く別物である、と考えざるを得ない。でも、これは感覚的に多くの人が思ってることなんじゃないかと思うけど。
まず決定的に違うのは時間の支配の仕方。10分の動画があったら視るのに10分取られる。まあ、1.3倍速とかで内容を理解しながら速く視る、みたいなことも出来るが、基本的に視る側に時間の支配権はない。
一方で、写真の場合、時間の支配権は完全に視る側にある。
例えば、自分たちの旅の想い出として、ムービーと写真集があるとしたら、ぱっと振り返るにはやはり写真集が有利。自分で時間をコントロールしながら、写真で足りない部分は想像力で「こんなんだったなぁ。」と補完出来る。
また、技術的にも、効率的にも、動画の一コマを切り取って、写真に、というのも難しい。仮に動画の一コマがデジタル一眼レフ並の高解像度であったなら、動画は恐ろしいぐらいの大容量になるだろうし、それを処理するマシンにも相当なパワーが要る。
それに、動画の撮り方と写真の撮り方は、意外と異なる。
時間を使いながら流れの中で全てを表現しようとする動画と、一枚で全てを表現しようとする写真。それを考えると、動画の中の一コマに写真に使用するのに最適なコマが必ず存在するとは限らない。
と、大体そんな様なコメントを残した。
で、ここからさらに話を広げて、芸術と時間の関係性について。
時間に着目して考えると、映画とか音楽って、やはり時間芸術である。もちろん、途中で止めたり出来るけど、リズムが狂う。リズムが狂ったり、連続した流れの中での印象が途切れたりすると、かなりの確率で制作者の伝えたいことが伝わってこない。そんな訳で、基本的には、再生されたら、終わるまで作り手に時間を預けなければならない。
時間と心に余裕があれば、それもいいんだけど、そういうときばかりではない。そこへいくと、本とか写真を視る場合、時間のコントロール権はやはり視る側にある。
本とは実に不思議なもので、本の世界に没頭していても、自分でここまで、と決めたら、さっと切り上げられるし、途中から読みはじめても、さっとその本の世界に戻れる。それは写真も同じ。
そういう意味では、どうしても時間が細切れになりがちな現代人の生活において、本、活字の存在意義は高まる一方だと思うし、同じ意味で写真の必要性も薄れることは全くないと思う。
現代はライフハックだ、なんだ、と言って、時間を効率的に使うのが良いこととされている風潮がある。やはりパソコンの影響だろうか。パソコンは単なる道具だから、同じ作業をするなら時間は短い方が良い。しかし、そういう考え方が、他の日常生活にも持ち込まれている気がする。
話が少し飛躍するが、70年代初頭にプログレッシブ・ロックなる音楽が流行った。1曲がレコード片面全部(23分)を占めている曲もザラにあった。思うに70年代は、レコードもラジオも、プレイヤーがある場所に人間がわざわざ行って聴くのが普通だったし、時間概念的にも余裕があったのだろう。しかし、単なる流行の移り変わりのせいもあるだろうが、ウォークマンが生まれて、音楽を持ち歩ける時代になって以降、音楽の持つ時間が、人の日常生活の時間に勝つことが出来なくなった。それを考えると、今後、長尺の音楽が一般的に受けることはまず無いような気がする。
映画も、金銭的に、というよりも、時間的に、贅沢な娯楽になっている様に思う。そして、時間が貴重になっていくにつれ、ライバルが、アトラクション、旅行などの体験型レジャーに移りつつある。いくら3Dの映画が出て来た、とはいえ、体験型レジャーがライバル、というのは結構つらい。
実際に割ける時間、そして時間の使い方に対する考え方。これらが、実際の芸術に与える影響は大きい。時間芸術にとっては、現在は厳しい時代なのかもしれない。
時間の空間化。
簡単に言うと、映像と写真は基本的に違うものだからね。