村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んでる途中経過。

そんなもん、読んでからにせぇよ、と思われるかもしれないが、なんだか全部読んだところで感想を書かない様な気がするので今書いておく。私は自分自身の評価によっぽど自信がないのか、ついついアマゾンの評価を見てしまうのだが、今回の『多崎つくる』はやけに辛い評価が多い。私としてはそこまでひどいかね?と訝ってしまうが、まあ昔のドラクエ並の騒ぎになってたからね。私が思うには、期待値と作品の質に誤謬があったような気がする。誤謬? こういう使い方であってるのかな、この言葉。言葉を換えれば、果たして批判をしているのが、首を長くして待っていたファンかどうかは知らないが、発売を目前にして50時間は遊ぶつもりのRPGのつもりで買ったら、5時間であっさり終わってしまうテキストアドベンチャーゲームだった、みたいな齟齬があったとでも言うべきか。

奇しくも村上春樹自身が帯で書いているが、もともと短編のつもりで書いていたら長くなったという。確かにそんな感じで、まだ真ん中ぐらいまで読んだだけだが、短編感がありありとする。村上春樹って作家はとても正直なところがあって、小説の長さによって、物語の深さがきっちり違っている。前の『1Q84』や『ねじまき鳥クロニクル』『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は、もう作家自身が自分がその時の力量でもって、自分自身の精神世界を掘れるだけ深く掘る。そして底にあるものを全てかっさらって、地表に上がってくる。評価はそれぞれだが、そういう大作感、おなかいっぱい感は相当ある。ただ、今作は・・・中編でありながらも、世界観的には短編ぐらいの掘り下げしかないかな、という気がしなくはない。敢えて言うなら、その辺が批判の原因なのかもしれない。

ただね、私は面白いと思って読んでる。ある日突然奪われた何か、そのものに対する静かな焦燥感や諦観、・・・まあ他に言い方は色々あるだろうが、そういうものを表現するのがうまいのよ、村上春樹は。で、何か煮え切らない思いを悶々と抱えていた昔の私は、どうして小説の中にこんなにも私の事が書かれているのか?と衝撃を受けて、未だにファンをやっている訳。まあ、村上春樹が好きってだけでこんなに叩かれる時代が来るとは思ってなかったけども(笑) ただ、そんな村上春樹ですら、最近は作風が随分とタフになってきて、ちょっと”煮え切る”方向に舵を切って来ている。未だに煮え切らない私としては、村上春樹ですらオレを置いていくのか、と哀しい思いをしたものだったが、ところがどっこい、今作は、そういう諦観に満ちている。多分短編の尺では、主人公が鬼ヶ島に行って鬼退治をするぐらいの余裕がなかったのだろう。だから、その”煮え切らなさ”に春樹節健在、と喜んでいるのだが、村上春樹自身はこういう評価は、これはこれでうれしくないのかもな。

とにかく、村上春樹は3年掛けてこの『多崎つくる』を書き上げた。1本のろうそくを確実に使った。彼の年齢から言っても、残りのろうそくの本数というのは大体決まっている。この本がもし彼の遺作となるのであれば、村上春樹はきっと後悔するであろう。はっきり言えば、そういう本だ。これが最後のろうそくだと思っていたら、この作品は日の目を見なかったであろう。作家生活後半において、1本をこの小説の為に使ったのが良かったのか悪かったのか・・・それは最後まで読んでみなければ分からないが、ファンとして喜ぶべきは、少なくとも村上春樹自身はもう少し残りのろうそくは持っていると思っていて、今作はあくまでその途中で繰り出した一本であり、まだまだ余力があるということ。つまり、まだ大長編の村上春樹作品は読めるのであり、『多崎つくる』は彼の普通の作家活動の中から普通に出された一作であるということ。それが、ことのほか面白ければ、それに越したことはないな、というのが、今の私の偽らざる気持ち。

ま、私は思ったのは、この本を世紀の大傑作とか、村上春樹の集大成、などという先入観を捨てて、気楽に読めば、普通に面白いんじゃないの?ということ。ここでわざわざ私がフォローしなくても、誰かがもっと適切な表現でこの小説の良さを説明してくれてるとは思うけど。ま、今回の本は、外野の喧噪も合わせて楽しませてもらってる、ということでひとつ。

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