Eテレ「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」を見て

私は、カズオ・イシグロは「日の名残り」と「私を離さないで」の2作しか読んだことがないんだけど、どちらも非常に印象に残る作品だった。ある種の、とても判断の難しい普遍的な事象にぶつかる登場人物達がそれぞれの人の、その人らしいやり方で、物事を解決したり、あるいはこじらせたりするのだが・・・まあそれはどの小説でもそうだろうが、その後ろにカズオ・イシグロ氏の優しく静かに見つめる眼差しを感じるというか・・・。私は、作家じゃないんで表現が全く及ばないのがもどかしいが、良いにせよ、悪いにせよ、そのどちらにもそっとイシグロ氏が共感を寄せている、切なさと優しさを感じる作風である、と思った。

さて・・・そのカズオ・イシグロ氏が、掲題の番組で、数十人の受講生(?)を前に「人はなぜ小説を書くか? あるいは読むのか?」という問いに問答を繰り返しながら、しつこくその点について言及してみせる。そして、現代の英文学のトップランナーともいえる氏が、その創作手法について、ほとんど手の内を明かしてしまっている。まあ、だからと言って、真似を出来るものでもないのだが・・・。今回は、生い立ちやそれぞれの作品の詳細は省くとして、私が特に印象に残った氏の発言をいくつか書き残して起きたいと思う。

今の自分なら若かりし頃の自分にどう声を掛けるか、という質問について

上記の質問を受けたイシグロ氏は、「言いたいことはたくさんあるが、取り敢えず賞賛を送りたい。」と言っていた。今の自分には、小説を書くノウハウもある、経験もある、しかしながら、20歳代の自分には、若者ならではのほとばしるエネルギーがあったし、今より幼少期の記憶とのつながりもあった。あふれ出るアイディアと情熱、幼少期とのより密接な関係。それらが重なって20歳代の作家にしか書けないことがある、とイシグロ氏は言った。20歳代を小説家として過ごしたことには意義があるし、今の若い作家を正直うらやましいと思うとも。

イシグロ氏が、幼少期の記憶がまだ新しい、という点に言及しているのが、印象的だった。私はもう40も過ぎたが、子供の頃の記憶は一部の印象的な出来事は覚えているが、自分がどんな子供で、何が好きで、何が怖くて・・・という記憶はどんどん薄らいでいく一方だ。それを考えると、もはや自分の20歳代もどんな人間だった記憶も怪しいが、確かに当時はまだ、子供だった頃、高校生だった頃の記憶がまだ鮮明で、それらの記憶の影響を大きく持ちながら生きていたはずなのだ。そういったことにこれまで思いを馳せたことはなかったが、これはなかなか興味深いことだ。

“都合のいい”記憶について

イシグロ氏は、人間は大人になるとある種の達人になる、と言う。例えば、自分が離婚したばかりだったとして、ばったり会った友人が「離婚したんだって? まあ、人生、一人の方が気楽でいいし、これからまた自由にやっていけるよ。」と言われて、よほどの馬鹿でない限り、そうか、離婚して良かった!とはならない。彼の言葉が方便だということをちゃんと知っている。そうやってある意味、自分を欺きながら、人々は社会生活を送っている。自分が行って来たことに対する過大な正当化、都合が悪いこと、思い出したくないことについては、微妙に記憶をゆがめたりしながら、はっきり事実と向き合おうとしなかったり・・・。人の記憶とはえてしてそういうものだから、全く信頼がおけないものであるが、小説家にとってはそこが都合がいいという。主人公は記憶を元に自分の過去を回想するが、やはり、自分の美点は誇張し、都合の悪い過去は記憶を書き換えたりする。しかしながら、読者も達人であるから、そういった主人公のやり方から、きちんとその人物がどういった人物か、読み取ることが出来る。

ところが、最初は自分の記憶に大して不誠実だった主人公も、色々な出来事に直面し、成長し、過去をきちんと受け入れられるようになる。その時、主人公の自己の記憶に対する評価は、小説冒頭の時の評価とは異なってくる。つまり必ずしも物語の中での主人公の考えは一定ではない。読者は、小説のなかの厳然たる事実は、主人公の記憶を通してしか見られないから分からない訳だが、主人公の気持ちが移ろうことで、過去の記憶に対する描写が微妙に異なりつつも、そんな主人公を通して、主人公の人となりと、小説の中の世界観をより深く理解することが出来るのだ。

物語を通して、主人公が人間として成長する、というのはよくある話だが、主人公が成長することによって、これまで自分が過大に評価して過去、忘れていようとしていた過去の記憶を微妙に修正し、これまでとは違った過去の記憶を持つ様になる、という視点はとても重要だし、またあるべきことなのだが、こうして話を聞かされるまで意識することは全くなかった。そこまでしっかり洞察し、また物語に上手に盛り込んでいるイシグロ氏は流石だと思った。

他のメディアでは出来ない小説ならではの表現とは?

イシグロ氏は、ある時、テレビの脚本の依頼を受け、その時、改めて自身の初期の作品を読み返したそうだ。そのときに思ったのが、どうもテレビの脚本と似てるな、ということ。登場人物の会話があって、合間に状況を説明するト書き。もっと小説でしか表現出来ない手法はないものか、と自問自答したそうだ。その時に出会った本がプルーストの「失われた時を求めて」。プルーストの時間軸を大幅に移動させながら、自由自在に物語が語られる手法に自由を感じ、そこに小説でしか再現出来ない表現の可能性を感じたそうだ。

「失われた時を求めて」は図らずも私も読んでいる途中なのだが、これはイシグロ氏も正直に語っていたが、大体の部分はつまらない。無駄に話が長い。しかしながら、主人公が、例えばある絵画を見て、ふと子供の頃を思い出すと、その連想を元に少年時代のエピソードが延々と語られる。プルーストで感心するのは、特に幼年期の頃の幼年期らしい無邪気さ、わがままさ、世界の狭さ、大人からすれば他愛のないことであるが少年にとっては死活問題である孤独、恐れ、そういったものがみずみずしく描かれていることだ。そういった感触をそれこそプルーストが飽きるまで延々と描写し、それに飽きたら、ふと絵画を見かけた以降の話に戻っていく。結構、その繰り返してストーリーは全く進んでいかないのだが、いざ、何かに触発されて、それにまつわる思い出にグッとズームされるときの、プルーストの集中力が凄い。確かに「失われた時を求めて」は映画化不可能かもしれない。長すぎるのもあるが、彼独特の時間軸の移動と伸縮の具合が、一定のスピードで再生される映像というメディアとはきっと噛み合わないだろう。たしかにそれこそ小説でしか取り得ない表現方法である。

メタファー(隠喩)について

物語には大きなメタファーがないといけない、とイシグロ氏は言う。理想的なのは本を読んでいる最中は、話の先が気になって、後ろにある大きなテーマ、メタファーに読者は気づかないが、読み終えて本を閉じた時、何か重要なメタファーが、読者にとっての大きな真実がこの本の中にあったのではないか、だからこそ、夢中になって読み耽ったのではないか、と感じさせることだという。

1989年に発表された「日の名残り」では、ふたつの大きなメタファーを小説内に完璧に埋め込むことが出来て、そういった意味で満足していると言う。物語は戦前のもはや制度として不要になりつつある、英国の執事の物語であるが、イギリスの執事に会ったことがない人でも、イギリスの執事については、誰しも、職業倫理の意識が高く、まじめに誇り高く業務を全うする、というイメージを持っていて、それを利用したと言う。

その2つのメタファーであるが、ひとつは職業人としての人のあり方。人は職業人として振る舞っている限り、愛情や友情に振り回されたり、傷ついたりすることもない。職業倫理の元に自分のパーソナリティを押し殺しながらも、一方では生身の人間として、いつしか本音を押し隠せなくなる瞬間があったり、あるいはその事を悔いる時が来たり、という葛藤の物語。

もうひとつは、庶民としての政治的スタンスについて。執事は家の中の事は主導権を持って執務に当たり、主人に奉仕する。それが職業人としての彼の誇りでもある訳だが、一方で、主人の家の外での行動、それによって帰ってくる主人、または主人の家の評判などは、もはや自分より上のレベルの高度な判断で、自分にはどうすることも出来ない。我々のうちのほとんどの人が、大統領や大企業のCEOではないわけで、こういった事象は非常に多くの人に当てはまり、自分に与えられた仕事は一生懸命こなすが、その仕事を収めた先のレベルでの判断はもはや自分のレベルではどうすることも出来ず、ただ流れに任せるしかない、という話。

小説内で執事である主人公は、同僚であった女中に好意を抱かれるが、屋敷内が職場であることを理由に、彼女のことを拒んでしまう。彼にとってはたった一回の恋のチャンスだったのだが・・・

また、彼が仕える主人は国の外交にも影響を与える重要人物であるのだが、外交情勢が悪くなるなか、自宅に招かれた主人のお客から政治的意見を求められるが、頑なに拒否し、客人の失笑を買う。彼にとって、政治を語るということは職業人としては出すぎた行為であったし、また彼は政治を語れるほどに政治に知識がある訳ではなかった。

たしかに、大きなメタファー・・・日本語で言えば、テーマと言えば、よりしっくり来る気がするが、一件、自分とはなんの関係もない別時代の英国執事であろうと、悩んでいること、行っていることは非常に普遍的で、誰しも思い当たるフシがあって、それゆえ、多くの読者の共感を得たことは想像に難くない。物語の核として先に挙げたメタファーをしっかり意識して書いていたとするなら、それはそれで凄いことだ。

なぜ小説を書くのか、読むのか

最後にこのテーマだが、イシグロ氏は人間にははっきりと物語が必要だと語った。経済活動だけで人が満たされることはないと。そして、我々は、小説は寝る前の娯楽としての読み物以上の何かであることを知っている。物語の中には重要な真実があることをみんな知っている。例えば、戦争でいつ誰々が死んだ、という情報だけでは人は納得しない。残された人の感情、死んだ人の見た光景、心情が知りたいのだ。

イシグロ氏が人間にとって物語は必要であるし、また真実である、と力強く語ってくれた姿が印象的だった。世の中には物語という形でしか表現出来ない真実があるともイシグロ氏は言った。全くその通りだと思う。また彼は、私はこの物語を通して、こう感じたのだが、あなたはどうですか?と読者に問いかけをしているのだという。これは私にとっては少し意外だった。問題提起はするが、答えは全て読者に委ねているのだと思っていたが、そうではないらしい。問題提起の仕方、主人公たちの考え方、物語の進ませ方自体がイシグロ氏のメッセージと考えた方がいいのだろうか。

・・・まあ随分と長くなったが(誰がここまで読んでくれているか、私の文章力が試されている(笑))、以上がカズオ・イシグロ氏の発言の中で特に印象に残った部分だった。小説とはなにか、小説ならではの表現方法とはなにか、普遍的なテーマをイシグロ氏自身にも読者にも問い続けながらも、常に小説の進化系を追い求めるイシグロ氏の姿勢はあたかも求道者といった趣き。しかし、根底には人間に対する深い洞察と理解、そして共感がある。私はまだ彼の著作は2冊しか読んでないので、寡作なイシグロ氏ではあるが、まだまだ彼の作品を読んでいくという愉しみがある。これはなかなか素敵なことだ。

さて、このささやかなまとめが、これから小説を書こうとしている人、そして読者達のちょっとした指針になれば幸いである。

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