太宰治も、まさか60年後に自分の本が電子ブックで読まれるとは思ってなかったであろう。しかししかし「青空キンドル」のおかげで、再び日本文学が熱い。・・・まあこれには日本語でまともに読める書物が今のところ、青空文庫にある様な、著作権の切れた古い作品しかないから、という理由もあるのだけれど。
ともかく私のキンドル読了本、記念すべき第一作目は太宰治の「人間失格」だった。私、この歳(36歳!)にして太宰作品に触れるのは初めて。三鷹に住んでいた時は、しょっちゅう太宰が入水心中した玉川上水の辺りを通って井の頭公園に行ったりなどしていたんだけどね。
さて、ババーンと私の拙い書評など。
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」
書き出しがなんか凄い。別に特別なことはどこにも書いてないのだが、物語の展開を期待させる上で、これ以上の導入はそうない。話の内容は・・・まあウィキペディアとかに載ってるからそちらを参考に(笑) ・・・よく村上春樹の本を読んで、自分のことが書いてある!と驚愕する人は多い。私も極くフツーにその中の一人であった。そして私は残念ながらというか、この物語の主人公の葉蔵にも深い共感を持ってしまった。残念ながら、というのは、この葉蔵、自他共に認める人間失格者であるからである。
葉蔵は他人を信じることが出来ない。理解することが出来ない。故に他人は恐怖の対象でしかない。道化に成りきり、架空の人格を築いて、なんとか世の中を渡っていこうと・・・生きていこうとするが、人生で何度かその道化を見破られ、文字通り、死んだ方がマシなぐらいの恥辱を覚える。私も葉蔵ほどではないが、陰鬱で、極く稀に饒舌になるときもあるが、基本的には沈んでいる。そして他人が怖い。私の場合は他人につまらない思いをさせたり、他人の期待に応えられなかったりするのが非常につらい。人々はこんな私にでも何らかの期待を寄せる。その期待はありがたいのだが、期待に答えられないことが非常につらい。
さて、一方で葉蔵は鋭い洞察力を持っている。人間をよく観察していて、例えばその女性自身のパーソナリティーについての理解についてはまるで自信がないのに、女性の習性についてはよく理解していて、
「用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。」
などとヌケヌケと抜かす。更に女性にこういう台詞を吐かせる。
「……あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。……いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。……時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。」
仮にこの私が、ほんの少しばかり女性にモテたことがあったとしたら、専ら上記の台詞の様な
「男めかけのけがらわしい特質」
のみで成り立っていたのだと思う。
葉蔵は最後には「脳病院」に入れられてしまうのだが、目下のところ私は脳病院には入れられてはいない。・・・にしても「脳病院」って。
さて、この小説、非常に悲惨極まりない内容なのだが、何故名著として読みつがれるのだろうか。この葉蔵が太宰自身であることを疑う人間はあまりいないだろう。太宰は自分の陰惨な心模様をそのまま圧倒的な筆致でもって書き写している。だからこの小説には嘘がない。(葉蔵は嘘に嘘を重ねていくのだが・・・) 人は死なすは、女は騙すは、でロクでもないやつなのだが、ここまで正直に書かれると心が動かされてしまう。私はこの主人公の葉蔵をどう評価してよいのやら、正直よく分からない。ただ読むと思いっきり心を動かされる。自分が葉蔵になった気がする。他人の人生を追体験するのが小説だと仮定したら、この小説はチャンピオンなのかもしれない。
「人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」
ま、一回読んでみると良いですよ。