Tumblrを眺めてたら、こんな記事があった。
“昔、筒井康隆の作品に影響をうけて、高校生がおじいちゃんを殺したという事件がありました。本人が「筒井作品に影響をうけて」と、はっきり言っちゃったんですよ。
あの時の筒井康隆は偉かったよね。
「文学とはそういうものだ」ってはっきりと言い切ったんです。
文学というのは人の心を立派にするようなものではなくて、人の心を下品にしたり、殺人者を生んだりする毒である。毒であるからこそ素晴らしいのだ。この世の中にはない「毒」がつくれるからこその文学である。
だから俺は「俺の作品で人殺しが出た」ということを誇りにはしないが、隠そうとも思わない。”
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岡田斗司夫『遺言』
小説だけに限らないが、普段、常識として、あるいは自分の中のルールとして、冒してはいけないと思っているインモラルな体験を追体験出来るからこそ、小説は素晴らしいのだと思う。裏切り、強盗、人殺し・・・。重要なのは、常識的か否かより、どれだけ人の心を動かせるかだろう。
世の中には・・・残念ながら視野の狭い人も相当数いる。小説の内容が真に迫っていればいるほど、真に受けて、上記の少年の様に殺人を犯すものもいれば、それを受けて著者を非難するものもいる。優れた小説家であればあるほど、そういう目に遭うのだろう。しかし、本来小説を読むということは、小説の中の悪意を持った人の心理を追体験しながらも、そうやって、あらゆるタイプの人間の心理を知り、また彼も全く理解しがたい他人ではなく自分と全く同じ人間なのだ、と理解することなのだと思う。
ところで、昔の小説家って結構破天荒な人も多かったでしょ? 何度も心中未遂を繰り返したり、とか。今の世の中だったら、一回それをやっただけで、社会的に抹殺されてしまうと思う。しかし、そんな現代だからこそ、小説を読むことが必要なのだと思う。それも出来ればお花畑の様な善人しか出てこない小説より、悪人の出てくる小説の方がいい。その小説の中の悪人は、間違いなく自分の中の悪意を鏡に映したものに他ならない。しかし、そうやって定期的に自分の中の悪と向き合う行為をしておかないと、なにか調子のいいことが起こった時に、あっという間にダークサイドに落ちてしまうと思うんだよな。悪に対する免疫がない、とでもいうか。
私は、誰それのことは全く理解出来ない、とはあまり言いたくない。それを口にすることは、自分の人間に対する理解力の不足を公表しているのと同じことだと感じる。彼も私も同じ人間。それを全く理解出来ない、と言ってしまえるということは、自分の中の醜い部分から完全に目を逸らしており、しかもそのことに気付いてもいない、ということに他ならない。
その類いの戒めは・・・なかなか学校でも社会でも教わらない。それこそ詐欺に遭うとか友人に裏切られるとかいう経験でも積まないかぎり。だからこそ、小説の出番なのだ。(小説でなく映画、演劇でも構わないが。) どうにも現代は効率的に生きるのが流行ってるらしいから、小説よりもついつい実用書に手が伸びてしまうかもしれないが、定期的に自分の中の悪・・・筒井康隆のいう「毒」をきちんと見つめ直す、という意味においても、たまには小説も読んでおきたい。小説というのは生きる上で少しも役に立たない絵空事が書かれているだけのものではない。むしろ人間の、もっと言えばあなた自身の真実が書かれているのだと思う。